尼子経久 (AMAGO Tsunehisa)
尼子 経久(あまご つねひさ)は、戦国時代 (日本)の武将・戦国大名。
出雲国守護代。
少年期
長禄2年(1458年)11月20日、尼子清定の嫡男として生まれる。
幼名は又四郎。
文明6年(1474年)、主君・京極政経に人質として政経の元へ送られる。
又四郎はこの後5年間京滞在する。
滞在中に元服し、京極政経の経の字を賜り、経久と名乗る。
五年目に京の滞在生活を終え、祖国出雲に帰国する。
家督継承
文明10年(1478年)までに、経久は父から家督を譲られた。
この期間に幕命を無視して室町幕府の四職で出雲守護でもある京極政経の寺社領を横領し、美保関公用銭の段銭の徴収を拒否などを続けた。
これが原因となり室町幕府・守護・出雲国人からも反発を受け、文明16年(1484年)に居城を包囲され、守護代の職を剥奪されて出雲から追放されたと言われているが、詳細は不明。
これに参加したのは三沢氏・三刀屋氏・塩冶氏・桜井氏等の出雲有力国人である。
この多くは比較的独立性の強い国人衆であり、特に塩冶氏は元出雲守護を務めた名家で、出雲西部地域においては大きな勢力と自家領地に対しての守護不入の特権を持っており、京極氏も完全な配下にはしていない。
軍記物にみる経久流浪時代
以下が現在にも伝わる、軍記物からみる経久の流浪時代である。
幕府と主家から追放された経久は身を隠した。
出雲西部の鰐淵寺とも百姓の家とも、母の里の真木城に身を寄せたとも言われている。
弟の孫四郎(後の尼子久幸)は、安芸の守護、武田氏安芸武田氏の元へ預けられた。
長い放浪生活の末、追放された翌年の10月に、旧臣の山中氏・亀井氏・真木氏・川副氏らを糾合。
さらに必死の願いによって鉢屋衆賀麻党を味方とした。
その結果、兵を総勢100人余にまで膨れ上がらせた経久は、月山富田城を奪還する機会を窺った。
文明18年(1486年)元日、鉢屋弥之三郎率いる賀麻党70人は、恒例の新年を賀して千秋万歳を舞う催しに招かれた。
兵の気が緩んでいる内に経久は大晦日から富田城の裏手に潜み、火薬の詰まった武器を轟音発して城内の者を驚かせた後、賀麻党の手引きにより城中に切り込んだ。
城将塩冶掃部介は妻子を殺害し自害し、これにより経久は城主に返り咲き、京極氏から独立した。
ただ、上記の時期での経久の動向を示す当時の資料が余り無く、江戸時代になってからの軍記物で伝わるものだけであって、本当に流浪時代での内容が事実かどうかは不明である。
また、嫡男尼子政久は主君京極政経より偏諱を受けていることと等を踏まえると、段銭横領の罪の後も許され、後に政経より守護地位を譲られたとする方が妥当である。
よって、上記ような下克上のイメージとは違い、経久が比較的穏健な形で守護地位を獲得したと思われる。
長享2年(1488年)、出雲の国人三沢氏を降伏させるも、この後に何度か三沢氏とは対立しており、完全な配下には置けていない。
後に、主君である京極政経は近江国での内紛に敗れて、出雲へ下向した。
そして子の孫童子丸を預けるという書状を書き残し、出雲の安国寺で生涯を終えた(享年50)。
主君京極政経の没年永正5年(1508年)に、経久は正式に出雲守護職に任命された。
そして守護就任に伴い、幕府から三好氏の討伐の命令が出されたとされ、経久はこの命に応じ、三好氏と京にて戦っているとされている。
只、長享2年(1488年)からこの後約30年余りの間は、対外遠征よりも国内統一へ向けて行動している。
尼子氏の勢力拡大
永正8年(1511年)、中国地方の大大名である大内氏当主大内義興が上洛。
この上洛に経久は従い、京都では船岡山合戦に参加したとされているが、詳細は不明。
永正9年(1512年)、備後国国人の大場山城主古志為信の大内氏への反乱を支援している。
この時期に、次男尼子国久は細川高国から、三男塩冶興久は大内義興から偏諱を受けており、両者との関係を親密にしようとしていたものと思われる。
永正14年(1517年)、大内義興の石見守護就任に納得出来なかった前石見守護山名氏と手を結び、石見大内方の城を攻めている。
また、備中国北部に力を持つ新見氏と手を結び、三村氏を攻撃している。
永正15年(1518年)、経久は弟の久幸に伯耆国の南条宗勝を攻めさせる一方、嫡男・尼子政久を叛旗を翻した桜井宗的の籠もる磨石城へ差し向けた。
しかしその最中、政久は矢に当たって命を落とした。
大永元年(1521年)以降、尼子氏は石見国に侵入した。
安芸へも手を伸ばし、大永3年(1523年)には大内氏の安芸経営の拠点である鏡山城を攻め、重臣亀井秀綱の命で、傘下の毛利元就と当主毛利幸松丸に攻城させた。
元就は策略を使い、城主蔵田房信の叔父、蔵田直信を寝返らせ、城主の蔵田房信は自害し、鏡山城は落城した。
後、直信は、何らかの理由よって殺された。
しかし、同年には尼子方であった安芸武田氏・友田氏が大内氏に敗北し、翌大永5年(1525年)には元就は弟の相合元綱との内紛の後、尼子との関係を解消して大内氏に所属を変えた。
これにより、尼子氏に傾いていた安芸国の勢力バランスが変わることになった。
毛利氏の離反は、毛利氏の後継争いに尼子家臣・亀井秀綱が介入したことが大きな原因とされているが、実際には経久の強い意向が働いていたと思われる。
大永4年(1524年)、経久が軍勢を率い、西伯耆に侵攻し、南条宗勝を破り、更に守護・山名澄之を敗走させた。
敗北した伯耆国人の多くは因幡国・但馬国へと逃亡し、南条宗勝は山名氏を頼った(大永の五月崩れ)。
大永6年(1526年)、伯耆・備後守護職であった山名氏が反尼子方であることを鮮明とし、尼子氏は大内氏・山名氏に包囲される形で窮地に立たされる。
翌大永7年(1527年)、経久は自ら備後へと兵を出兵させるも陶興房に敗走し、尼子方であった備後国人の大半が大内氏へと寝返った。
塩冶興久の乱
享禄元年(1528年)、再び経久は自ら備後へと赴き多賀山氏の蔀山城攻めこれを陥落させるも、同年5月には石見国尼子方の高橋氏が毛利・和智氏により滅ぼされている。
享禄3年(1530年)、三男塩冶興久が、反尼子派であることを鮮明にして内紛が勃発した。
この時に興久は出雲大社・鰐淵寺・三沢氏・多賀氏・備後山内氏等の諸勢力を味方に付けており、大規模な反乱であったことが伺える。
また、同時期には興久は大内氏に援助を求めており、経久も同じ時期に文を持って伝えている。
結局の所、消極的ながら大内氏は経久側を支援する立場になっている。
当時の大内氏家臣陶興房が享禄3年5月28日に記した書状を見るにしても、興久は経久と真っ向から対立しており、更には経久の攻撃を何度も退けていることが伺える。
また、大内氏は両者から支援を求められるも、最終的には経久側を支援しており、尼子氏と和睦している。
だが、この反乱は天文3年(1534年)に鎮圧され、興久は備後山内氏の甲立城に逃れた後、甥である詮久の攻撃等もあり自害した。
興久の遺領は次男尼子国久が継いだ。
また、同時期には隠岐国の国人隠岐為清が反乱を起こしているが、すぐに鎮圧されている。
同年には嫡孫詮久は美作国へと侵攻し、これを尼子氏の影響下に置く。
また、その後も備前へと侵攻するなど勢力を徐々に東へと拡大していった。
この後、詮久は大友氏と共に反大内氏包囲網に参加している。
家督譲渡
天文6年(1537年)、経久は家督を孫の尼子晴久に譲っている。
同年には大内氏が所有していた石見銀山を奪取している。
大友氏と大内氏の争いが続いていたこともあり(又は大内氏とは表面上は和睦状態だった為)、東部への勢力を更に拡大すべく播磨国守護の赤松氏当主赤松晴政と戦い大勝する。
これに政祐は一時淡路へと逃亡する。
翌年の天文8年(1539年)、別所氏が籠城する三木城が尼子方へと寝返ったため、政祐は堺へと逃亡。
これにより詮久は京へ上洛する構えを見せたが、大友氏が大内氏と和解、更には尼子氏との和睦を破棄され石見銀山を奪回された。
同年、大内氏によって尼子氏から援兵を受けていた安芸尼子方の武田氏居城佐東銀山城が落城、当主武田信実は一時若狭へと逃亡する。
そのため、詮久は出雲へと撤退した。
これにより大内氏との和睦は完全に破綻した。
天文9年(1540年)、大内氏勢力下にある安芸国人の毛利氏の討伐を、武田信実の要請を受け入れ晴久は出陣。
周囲の形勢は尼子氏に有利であり、その軍勢は諸外国からの援兵も加わり30000騎へと膨れ上がっていた。
この大軍を率い吉田郡山城を包囲、これを落城させるべく攻撃を仕掛けるも悉く失敗し、そして翌年には厳島神社にて戦勝祈願を終えた陶晴賢率いる大内援兵10000騎が到着し、その後尼子氏は本陣奇襲を受け人的損害を被った(吉田郡山城の戦い)。
天文10年(1541年)11月13日、月山富田城で波乱に満ちた長い生涯を閉じた。
人物
逸話
北条早雲と並ぶ下剋上の典型であり、毛利元就や宇喜多直家と並ぶ謀略の天才とも云われ、「謀聖(ぼうせい)」・「謀将(ぼうしょう)」と称された。
経久、元就、直家はよく中国の三大謀将と称される。
大河ドラマ「毛利元就 (NHK大河ドラマ)」では、経久が鬼のような謀略家とされ、最後には自分の死すら謀略に利用したように描かれた。
一方で多面に優れ、文武両道だったという。
晩年に自画像を残している。
謀略家としては冷徹であったが、その一方で家臣に対しては非常に気を使う優しい人物でった。
経久の人柄を偲ばせる逸話として、『塵塚物語』は、経久は家臣が経久の持ち物を褒めると、たいそう喜んでどんな高価なものでも、すぐにその家臣に与えてしまうため、家臣たちは気を使って、経久の持ち物を褒めず眺めているだけにしたと伝えている。
ある時、ある家臣が庭の松の木なら大丈夫だろう思い、松の枝ぶりをほめたところ、経久はその松を掘り起こして渡そうとしたため、周囲の者が慌てて止めたという。
それでも経久は諦めず、とうとう切って薪にして渡したという。
世人はもったいないことだ、と話たが、経久は全く気にもしなかったという。
また冬には着ている着物を脱いでは家臣に与えてしまったので、薄綿の小袖一枚で過ごしていたとも。
『塵塚物語』は経久のことを「天性無欲正直の人」と評している。
これらの逸話は戦国武将としては類型が無いことから、案外事実である可能性が高い。
なお海外にまで視点を広げれば、同様の二面性を持った人間として、敵には殺戮者・略奪者として恐れられながら、家臣に対しては略奪品の豪華な装身具を気前良く渡して、自分自身は質素な服で過ごしたアッティラの例がある。
政策
外交関係
尼子氏は本願寺光教と手を結んでいた。
嫡孫晴久の代にも本願寺とは連絡を取っており、度々本願寺側の日記にも尼子氏の名は登場している。
内政
経久配下の国人衆は尼子氏の直接配下とは言えず、非常に不安定なものであった。
これらを統一し掌握するべく、経久は対外遠征による侵略により出雲国内の国人衆をまとめようと努力している。
この様に配下国人衆に対して明確な目標を掲げ、それに従わせることによって尼子氏は運営されていた。
これは同時代の大名にも同じことも多く、最も有名なのが武田信玄率いる武田氏である。
出雲国内の尼子氏が及ぼす影響力は経久の時期は低く、それらの解決策として三男興久を塩冶氏に養子に出すも、それが裏目に出て実子の反乱という失策を招いている。
嫡孫である晴久は、尼子氏は中国地方の大大名として最盛期を迎えている。
しかし、経久の時期に国人衆の完全な掌握という領国支配の根本が未熟なまま大名尼子氏が肥大化したために、最期には次代の当主晴久に多くの「負の遺産」を残してこの世を去ったのである。
経久方針は、権威や情に絡んだ物による国人衆の統制であり、集団利権に絡んだ個々の独立性を重視したものだったのである。
この負の遺産が、新宮党粛清の憂き目、更には曾孫尼子義久の代で尼子氏が滅亡する遠因ともなっている。
11ヶ国の太守と形容されるが、実質上支配下に置けた勢力はあくまで東出雲(西出雲は塩冶興久の乱が起こったように、尼子氏の勢力は極めて不安定)・隠岐国・石見一部・西伯耆であり、他地域は流動的であった。
実際の尼子氏の基盤は山陰が主であり、勢力図も形式的な主従関係が含まれたものであり、更には経久自身にも問題があったのか多くの出雲国人の造反を招いている。
その上、中国地方には長年の間、基盤を固めていた大内氏の存在は大きく、やはり最終的には大内氏の侵攻に苦慮しているし、興久の乱により家中が泥沼状態に向かったというのも事実である。
しかし、大内氏という大大名を相手に、対等な勢力図を経久・晴久の2代で築いたのは評価出来るだろう。