尾崎三良 (OZAKI Saburo)

尾崎 三良(おざき さぶろう、天保13年1月22日 (旧暦)(1842年3月3日)-大正7年(1918年)10月13日)は、幕末の三条家家人。
明治政府に仕えて元老院議官・法制局長官などを歴任した。
諱は盛茂。
別名・戸田 雅楽(とだ うた)。
なお、尾崎行雄は娘婿であるが、直接の血縁関係はない。

経歴

仁和寺宮諸大夫若林盛之の3男として京都郊外の葛野郡西院(現在の京都市右京区)で生まれる。
しかし、幼くして両親と死別して尾崎家の養子となり、烏丸家・冷泉家などに仕えた後、三条実美に気に入られてその家人となる。

三条の七卿落ちに随行して長州藩次いで大宰府に赴く、後に「戸田雅楽」という名前で三条の代わりとして西郷隆盛をはじめとして各地の尊皇攘夷派との連絡役となる。
慶応3年(1867年)、三条の命で長崎市に赴いた際に坂本龍馬・中島信行と親交を結び、大政奉還の策を協議、岩倉具視に建策する。
その際に出されたのが、後の三職制度であるとされている。

龍馬の死後、三条は朝廷に復帰するが、尾崎は龍馬から聞いた海外の話に関心を持ち、留学を志す。
それを知った三条は嫡男三条公恭(実美の兄の子で養子、後に離別)の留学の随員としてともにイギリスに渡る様に命じた。
明治元年(1868年)、イギリスに渡った。
イギリスで河瀬真孝に英語の基礎から学びながら勉学に励み、後にオックスフォード大学聴講生としてイギリス法を学ぶまでになった。
後に実美の実弟である河鰭実文のイギリス留学の世話も行う。

明治4年(1871年)、岩倉使節団のアメリカ合衆国到着を知ってアメリカに渡って木戸孝允と会見し、条約改正の時期尚早とする意見で一致させる。
明治6年(1873年)に木戸の要請で帰国して太政官に出仕、法制整備の任にあたる。
明治13年(1880年)ロシア駐在一等書記官として、公使の柳原前光とともにサンクトペテルブルクに入る。
翌年、帰国を命じられて太政官大書記官、内務大丞などを歴任、明治18年(1885年)には元老院議官となり、大日本帝国憲法の審議にあたった。

明治23年(1890年)の帝国議会発足とともに貴族院議員に勅撰され、翌年成立した第1次松方内閣において法制局長官に就任した。
後に田口卯吉の帝国財政革新会の結成を支援する。
明治29年(1896年)に男爵に叙せられる。
明治40年(1907年)には宮中顧問官となった。
晩年には文部省維新史料編纂委員を務めた。

逸話

尾崎は立身しても三条実美から受けた旧恩を忘れず、内閣制度発足時に三条を形式だけの内大臣として祭り上げ、伊藤博文を初代内閣総理大臣にしようとした際には、最後まで反対した。
以後も東久世通禧らとともに三条の政治的復権を画策している。

新聞紙条例・讒謗律の起草にあたったことから、新聞界などから深く恨まれて、「酷吏」などと非難された。

保安条例の起草者も尾崎とされているが、これによって旧友である中島信行が捕らえられて東京から追放されてしまう。
また、同じく追放されてしまった尾崎行雄は、後に尾崎とイギリス人妻との間に生まれた娘・テオドラと結婚した。

[English Translation]