山中長俊 (YAMANAKA Nagatoshi)
山中 長俊(やまなか ながとし、天文 (元号)16年(1547年) - 慶長12年2月24日 (旧暦)(1607年3月21日))は、安土桃山時代の大名。
山中為俊の子。
官位は従五位下、山城守。
通称、吉内、橘内。
子は山中信俊、山中友俊、山中盛俊。
来歴
近江国甲賀郡の出で、甲賀二十一家の山中氏の庶流(南北朝時代に分かれている)。
初め六角氏に仕えて、織田信長に六角氏が滅ぼされたのちは信長に仕え、本能寺の変ののちは柴田勝家に属し3000石を与えられ家老となる。
勝家が滅びたのちは丹羽長秀に仕える。
長秀の没後、丹羽家中が乱れた為、堀秀政に寄食した。
のちに豊臣秀吉に召し出され右筆となる。
天正18年(1590年)、小田原の役、奥州仕置に従軍し、外交折衝などで活躍した。
文禄元年(1592年)文禄の役では肥前国名護屋城に在陣。
文禄2年(1593年)以降、豊臣家蔵入地の越前国北袋銀山代官、筑前国蔵入地代官等を歴任し、同年9月に100石を加増された。
山城守に叙任され、文禄4年(1595年)には、一万石となり諸侯に列した。
所領は摂津国西三郡、河内国中部、近江国、伊勢国にも散見していた。
その後、畿内の蔵入地3万石の代官となる。
秀吉の命により太平記の続書として長編歴史書「中古日本治乱記」を執筆。
貞治元年(1362年)から慶長2年(1597年)まで執筆したところで秀吉が没したが、のちに太田資方の勧めで増補し、関ヶ原の戦いの終結までを執筆して完成させた。
関ヶ原の戦いの際は西軍に属し大坂城留守居・守備隊として大坂城周辺を守備した。
この為、戦後に改易となり、京に隠棲し同地で没する。
墓は、西教寺(現・大津市)。
法名、紹春。
長俊の孫(信俊の子)の山中幸俊は、豊臣秀頼に仕え、大坂の役に参加した。
豊臣家滅亡後、京に隠棲ののち、浅野長晟に仕え、子孫は広島藩士として存続したという。
また、信俊の次男の山中宗俊は、徳川家康に仕え、慶長14年(1609年)に1000石を賜り旗本となり、こちらは大坂の役では永井直勝の組に属し従軍した。
子孫は旗本として存続している。