山名政豊 (YAMANA Masatoyo)
山名 政豊(やまな まさとよ)は、室町時代後期の守護大名。
応仁の乱で知られる山名宗全の後継者である。
生涯
父は山名教豊、または山名宗全の子で教豊の養子ともされる(教豊は宝徳2年(1450年)に宗全から家督を譲られて山名家当主となっていたが、応仁元年(1467年)9月に陣没し、宗全が当主として復帰している)。
文明 (日本)5年(1473年)、応仁の乱の最中に宗全が死去したため、文明6年(1474年)に東軍方の細川政元と和睦する。
この際和睦に応じなかった畠山氏や大内氏を攻撃している。
その後は、文明11年(1479年)から文明13年(1481年)にかけて頻発した山陰地方の国人の反乱を鎮圧のため、領国へ下向している。
嘉吉の乱で山名氏の守護領国となっていた播磨国や備前国では、応仁の乱を期に回復した赤松政則が占拠している状況にあった。
政豊は旧領回復のため、文明15年(1483年)に赤松家の内紛に乗じて播磨に出兵する。
当初は真弓峠の戦いで大勝したものの、文明17年(1485年)以降は劣勢となった。
長享2年(1488年)には政則に敗れて(坂本の戦い)、播磨における影響力を失うに至った。
将軍足利義尚の六角征伐にも従軍して戦功を挙げた。
だが義尚が最中に陣没すると、足利義視らと共謀して足利義稙(足利義稙)を新将軍に擁立した。
また、明応の政変にも参加、細川政元と共に義材を廃して足利義澄を新将軍に擁立している。
政豊の後継は山名俊豊であったが、晩年、政豊は山名致豊を溺愛した。
そして明応6年(1497年)には俊豊と対立した。
のち、俊豊を廃嫡して致豊に後継を定めた。
明応8年(1499年)に死去。
享年59。
ただし、没年には文亀2年(1502年)1月説もある。
足利義政の男色相手で信任は厚く、茶器「九十九髪茄子」を義政から譲り受けている。
それを誇りとして「九十九髪茄子」を鎧につけ戦場に赴いていた。
そのために「九十九髪茄子」は傷がついたという。