山名氏清 (YAMANA Ujikiyo)

山名 氏清(やまな うじきよ、興国5年/康永3年(1344年) - 元中8年/明徳2年12月30日 (旧暦)(1392年1月24日))は南北朝時代 (日本)の守護大名である。
山名時氏の子。

略歴

山名氏は父の時氏が2代将軍足利義詮時代に南朝方から室町幕府に帰服して守護国を安堵された。
1371年(応永4/建徳2)に時氏が没すると氏清の弟・山名時義が後を継いで山名氏の総領となり、氏清は丹波国、和泉国を領する守護に命じられた。
しかし総領になれなかったことに不満を持ち、時義と常に対立していたという。

1389(康応1)に時義が死去し、その後を時義の子・山名時煕が継いだ。
康暦の政変で管領の細川頼之が失脚し、山名氏の強大化を懸念していたと考えられる3代将軍足利義満は、時義死後の家中分裂に伴い、将軍令として氏清とその甥にあたる山名満幸に対して時煕、山名氏幸の討伐令を下し、氏清はこれに応じて時煕を攻めて追放した。
ところがその後、義満は時煕・氏幸を赦免し、さらに時煕を攻めた責任を山名満幸に問うとまで言い出したのである。
氏清は満幸に反乱へ誘われ、積極的でなかったとされるが一族の山名義理、山名氏家らとともに1391年(明徳2)に挙兵して、同年12月には京都に攻め入る。
合戦は京都内野で行われ、大内義弘や赤松義則、京極高詮などの有力守護大名によって編成された幕府軍の反攻に遭って、氏清は戦死した(明徳の乱)。

[English Translation]