山縣有朋 (YAMAGATA Aritomo)
山縣 有朋(やまがた ありとも、天保9年4月22日 (旧暦)(1838年6月14日)- 大正11年(1922年)2月1日は、日本の政治家、軍人。
長州藩の中間の子として生まれる。
元の身分は下僕に近い極めて低いものであったが、高杉晋作の奇兵隊に参加したことで出世の糸口を掴んだ(中間出身の彼がもし他藩に生まれていれば出世は有り得なかったと考えられる。
奇兵隊という高杉の天才的発想があったからこそ山縣や伊藤は世に出ることができた。
薩摩藩の場合は西郷や大久保、その他の人物も下級ではあっても必ず士分格を有していた)。
幼名は辰之助、通称は小輔、後に狂介と改名。
明治維新後は有朋の諱を称した。
晩年は陸軍のみならず政界の黒幕として君臨し、「日本軍閥の祖」の異名をとった。
第3代、第9代内閣総理大臣。
元老。
位階勲等は元帥 (日本)陸軍大将・従一位・菊花章・金鵄勲章・公爵。
また、イギリス帝国のメリット勲章も受章している。
幕末期
萩城下近郊の阿武郡川島村(現・山口県萩市川島)に、長州藩の蔵元付武家奉公人(足軽より低い身分で武士身分ではない)山縣有稔・松子の長男として生まれる。
将来は槍術で身を立てようと少年時代から槍の稽古に励んでいた。
久坂玄瑞の紹介で吉田松陰が主催する松下村塾で学び、尊皇攘夷運動に参加した。
山縣自身は生涯「自分は松陰先生門下である」と称し誇りにしていたが、現存する資料から山縣の在塾期間が極めて短かったことが判明しており、実際に松陰からどの程度の薫陶を受けたかは不明である。
山縣としては中間の子という出自の低さから、せめて松蔭の門下生であったという経歴が欲しかったとも考えられる。
なお、松陰の文章における山縣の初出は、安政4年(1857年)9月26日付の岸御園宛書簡である。
同書簡中、「有朋の如何なる人たるかを知らず」とその人物を岸に照会していることからも、来塾前の山縣が松陰と一面識もなかったことを知ることが出来る。
文久3年(1863年)に、上海市に渡航した高杉晋作に代わって奇兵隊軍監として活躍。
戊辰戦争では北陸道鎮撫総督・会津征討総督の参謀となった。
明治維新後
明治2年(1869年)渡欧し、各国の軍事制度を視察する。
翌年帰国した後は暗殺された大村益次郎の遺志を継いで軍制改革を行い、徴兵制度を取り入れた(徴兵令)。
明治5年(1872年)、山縣は陸軍出入りの商人、山城屋和助に陸軍の公金を不正融資して焦げ付かせる。
いわゆる山城屋事件である。
山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追究は及ばなかったが、責任を取る形で辞職。
明治6年(1873年)に陸軍省陸相・内部部局となり、参謀本部 (日本)の設置、軍人勅諭の制定にかかわった。
明治16年(1883年)には内務大臣歴代内務卿に就任して、市制・町村制・府県制・郡制を制定した。
明治22年(1889年)に内閣総理大臣に就任。
超然主義をとり軍備拡張を進める。
第1回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。
明治24年(1891年)に辞任し、元老となる。
日清戦争や日露戦争では戦争遂行の指揮をとったが的外れのものが多く、日清戦争時は「天皇に軍情報告せよ」という名目で第一線から呼び返されたこともある。
明治31年(1898年(明治31年)、第2次山縣内閣発足。
明治32年(1899年)、文官任用令を改正。
文官懲戒令、文官分限令を公布。
明治33年(1900年)3月10日、政治結社・政治集会の届出制および解散権の所持、軍人・警察官・宗教者・教員・女性・未成年者・公権剥奪者の政治運動の禁止、労働組合加盟勧誘の制限・同盟罷業(ストライキ)の禁止などを定めた治安警察法を制定し、政治・労働運動などの弾圧を進めた。
続いて3月29日、衆議院議員選挙法を改正し、選挙権を地租または国税15円以上から10円以上に緩和(さらに、国税は過去3年間から2年間に緩和。地租は1年間で変化無し)した。
それと共に、小選挙区制(一部完全連記制の中選挙区制)から大選挙区制(一部小選挙区)に改めた。
市制を執行している自治体はそれぞれ独立した選挙区とし、都道府県の郡部でそれぞれ1選挙区とした。
このため、東京・大阪・名古屋などを除く大部分の都市は人口が少なく、定数1の小選挙区となった。
また、記名投票を秘密投票に改め、小学校教員の被選挙権を禁止した。
山縣は政党政治を嫌い、議会勢力と一貫して敵対した(超然主義)。
小選挙区制は強大な政党が生まれやすいことから、大選挙区制に改め、小党を分立させれば議会の懐柔がしやすくなるという計算があった。
また、政党が農村部で発達し始めたことから、選挙区の組み替えや国税納付の資格を緩和することで、これまでの地盤を破壊し、政府や都市部の意向を反映した議員を生み出しやすくする狙いがあったといわれる。
もっとも、小選挙区が残ったこと、政党そのものが発展途上の時期であったことなどから、大選挙区制の下でも、むしろ議席は大政党への集中が進んだ。
同年10月辞任。
陸軍のドン
以後は、陸軍・内務省・宮内省・枢密院などにまたがる「山県系官僚閥」を形成して、陸軍では桂太郎や寺内正毅、官僚では清浦奎吾や平田東助らの後ろ盾となって政治に関与するようになる。
日露戦争では参謀総長として日本を勝利に導いたこと(ただし明治天皇は、山縣より桂を信頼しており、山縣の頭越しに桂へ諮詢することもあった)、伊藤博文が暗殺されたことにより、明治末期から大正初期にかけては山縣の発言力は増大した。
だが、桂の自立(大正政変を参照)、大正デモクラシーや社会運動の高揚、第1次世界大戦など、山縣は次第に時代の変化に追いつけなくなり、桂の死後には寺内や清浦らも独自の道を歩みだすようになる。
そのような中で政党内閣の時代を迎え、やがて宮中某重大事件を巡る対応の拙さから山縣の政治的な権威は大きく失墜した。
宮中某重大事件の後、ほどなくして山縣は失意のうちに逝去する。
周囲の評価
自由民権運動の弾圧や、大逆事件を積極的に推し進めたこと、宮中某重大事件での宮中への必要以上の容喙等から山縣の人気は生前から低かった。
山縣の権威が失墜した宮中某重大事件は西園寺公望が山縣に相談したことをきっかけに山縣が動き始めたものであったが、世間では藩閥間の対立ばかりが強調されて捉えられて、結果的に山縣一人が「悪者」となった側面もある。
しかし、この事件をきっかけに山縣を追い落とそうとした勢力が強かったという事やそれを後押しした世論が大きかった事を考えれば、山縣に反感を抱いていた人がいかに多かったかを示した事件との見方もある。
その死に際しては、維新の元勲として国葬が行われたが、参列したのは陸軍や警察の関係者がほとんどで、一般の参列はあまりなかった。
これに対し、ほぼ同時期に行われた大隈重信の葬儀は、同じ首相経験者であり維新の元勲であったのにもかかわらず国葬にならなかったものの(「国民葬」とされた)、各界の著名人が出席し、一般参列者によってごった返すなどあまりに対照的だった。
当時、新聞記者だった石橋湛山(後の首相)は山縣の死を「死もまた、社会奉仕」と評した。
また、別の新聞では「民抜きの国葬」と揶揄された。
皇室でも不人気だったらしく、明治天皇は山縣に「キリギリス」というあだ名をつけていた。
明治天皇は、陰険な山縣よりも、明朗快活で冷静であった伊藤博文や日露戦争を指導した桂太郎、幼馴染であった西園寺公望を信頼していた。
また、大正天皇は、山縣が宮中に参内したとの知らせを聞くと、側近達に「何か、山縣にくれてやるものはないか?」と、尋ねることがしばしばであったという。
言うまでもなく、何か参内の記念になるものをやって、さっさと帰らせようとしたのである。
また山縣がもつ異常なほどの権力への執心、勲章好きについて原敬は「あれは足軽(実際は足軽以下の中間を出自とする)だからだ」という一言で述べ、軽蔑の意を込めていた。
ちなみに原敬は平民宰相として知られるが、盛岡藩の家老の系譜であり、山縣に代表される新華族への嫌悪感もあって、爵位の授与を回避し続けた人物である。
名門公卿出身の西園寺公望は原敬のようにはっきりとは表現しなかったが、やはり山縣に対しては原同様の感想を抱いていたとされている。
現在東京市中心部の道路は狭いといわれているが、明治期の基準ではむしろ異常なほど広い道路だった。
この広い道路は将来の発展を考え、山縣が周辺の反対を押し切って作ったものである。
これは彼の功績と言ってよい。
茶道として知られ、和歌も好んだ。
また日本庭園好きとしても知られ、京都の無鄰庵、東京の椿山荘は、山縣が7代目小川治兵衛を抜擢して築かせたものである。
他に大磯町の小淘庵、小田原市の古稀庵 (小田原市)がある。
ただ、これらも謂わば成金趣味として眉をひそめる人が多かったと伝えられる。
軍内部に与えた影響
山縣の元長州藩出身の軍人ばかりを要職に就かせる手法は長閥と呼ばれ、嫌う者も非常に多かった。
また近代日本初の大掛かりな汚職疑惑に絡み、一旦は辞職もしている(山城屋事件)。
とはいえ、明治の元勲だけあって、軍部への影響力は計りしれないものがあった。
大正元年(1912年)に起きた「陸軍二個師団増設問題」において、第2次西園寺内閣の陸軍大臣であった上原勇作に辞表を提出するように意見書を出している。
陸軍内部でもこの問題への賛否が分かれていたが、最終的に辞表は提出された。
そして、山縣の思惑通り、新たな陸軍大臣が推薦されることはなく、内閣は総辞職して、第3次桂内閣が発足するに至った。
これも寺内正毅と共に長州びいきを推し進めた結果である。
しかし、寺内の死後、その勢力は急速に衰退し、山縣の死をもって長閥勢力の終わりは決定的となった。
しかし、昭和天皇は軍人として山縣のことを高く評価していたようである。
昭和天皇敗戦観の項目を参照。
栄典
明治10年11月2日:勲一等旭日大綬章
明治17年7月7日:伯爵
明治28年5月26日:元勲
明治28年8月5日:勲一等旭日桐花大綬章、金鵄勲章、侯爵
明治31年1月20日:元帥
明治35年6月3日:大勲位菊花大綬章
明治40年9月21日:大勲位菊花章頸飾、功一級金鵄勲章、公爵
大正11年2月9日:国葬
系譜
山縣氏は清和源氏多田氏の流れと言うが明確ではない。
家名はその祖が安芸国山県郡_(広島県)今田村に住んだ事からとされる。
父は蔵元付中間。
母は武家奉公人岡治助の娘。
家紋は丸に三つ鱗。
有朋には跡継ぎが無く、姉の壽子と勝津兼亮の次男山縣伊三郎を養子縁組として迎える。
伊三郎は枢密院・逓信省・徳島県知事等を務める。
有朋の姉、雪子は森山久之允に嫁す。
伊三郎の子山縣有道は宮中に仕え侍従・式部官を務める。
また、有朋の娘・松子と船越光之丞の三男山縣有光を養子に迎え、山縣家分家として男爵を授爵された。
有光は陸軍大佐・第21飛行団長。
有道の子山縣有信は栃木県矢板市長を務めた。