岩松家純 (IWAMATSU Iezumi)

岩松 家純(いわまつ いえずみ)は、室町時代中期の岩松氏の当主。
礼部家の家祖。

生涯

父の岩松満純は応永23年(1416年)に外祖父(異説あり)の上杉禅秀の乱で上杉禅秀(氏憲)に味方し、応永24年(1417年)に室町幕府による追討を受けて処刑されている。

父の死後、祖父の岩松満国によって家純は廃嫡された。
よって家督を継げず、出家した。
そして幕府の追討を恐れて西国に逃れた。

しかし永享の乱後に足利義教によって罪を赦免されて還俗した。
これは満純の死後、岩松家を継いだ従弟(満純の弟・満春の子)の岩松持国が鎌倉公方派であったため、家純を幕府派として擁立しようという義教の策略だったといわれる。

このため、岩松氏は五十子に所領を持つ家純と、新田庄に所領を持つ持国の礼部派と京兆派に分裂した。

家純は、享徳の乱において上杉氏に味方し、古河公方に属した持国を誘って味方につけるなど活躍した。
寛正2年(1461年)には、再び離反しようとした持国・次郎父子を討ち取っている。

文明 (日本)元年(1469年)、家純は、持国の子で京兆家を継いだ三郎岩松成兼(後閑氏祖)を追って新田庄に入った。
そこで長年分裂していた岩松氏を統一した。

長尾景春の乱が起こると、家純はこれまで協力していた堀越公方派から古河公方派に転換した。
これに反発する嫡男・岩松明純が叛旗を翻すと、家純はこれを廃嫡して孫の岩松尚純(明純の子)を後継者としている。
家純の晩年には家宰の横瀬氏の力が増大し、主家を凌ぐ力を持つようになっていた。

明応3年(1494年)に死去。
後を孫(養子)の岩松尚純が継いだ。

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