島津忠時 (SHIMAZU Tadatoki)

島津 忠時(しまづ ただとき、1202年(建仁2年) - 1272年5月8日(文永9年4月10日 (旧暦)))は鎌倉時代前・中期の武将。
島津氏の第2代当主。
父は初代当主・島津忠久。
母は畠山重忠の娘(異説あり)。
官位は修理亮。
大隅国守。
左衛門尉。
子に嫡男島津久経の他、山田氏 (島津庶流)の祖となる島津忠継、子が町田氏、伊集院氏の祖となる島津忠経がある。

初名は島津忠義。
のちに忠時。
1221年、承久の乱で幕府軍に従軍して武功を挙げた。
一門が守護をしていた、若狭国の守護職を兼任したりもした。
1227年、父・忠久の死により家督を継ぐ。
しかし在国はせず、鎌倉に在住して有力な御家人、または近習番役などにも任じられて幕政で重きを成した。
その功により伊賀国・讃岐国・和泉国・越前国・近江国国内などに地頭職を与えられた。
1265年、嫡男の島津久経に家督を譲った。
1272年4月10日、71歳で死去。
法号は道仏。
墓地は鹿児島市の本立寺。
または出水市野田町 (鹿児島県)の感応寺 (出水市)。

[English Translation]