平信基 (TAIRA no Nobumoto)
平 信基(たいら の のぶもと、保延3年(1137年)? - 没年未詳)は、平安時代末期の廷臣。
平氏平氏高棟王流、平信範の長男。
母は藤原能忠 (少納言)の娘。
正四位下、内蔵寮。
『兵範記』保元3年2月9日条に信範の娘(藤原脩範室か?)の婚礼の際に婿を迎えた「進士」「勾当」が同母兄弟である信基・平信季兄弟と推定されており、進士=紀伝道であったと見られている。
応保3年(1163年)に兵部省であったことが『山槐記』同年1月14日条から判明している。
平清盛の正妻である平時子と従兄弟であったことから、平家一門の一員として立身。
また、仁安 (日本)3年(1168年)の院判官代就任以後は後白河天皇の院近臣としても活躍し、衛門府、馬寮、修理職を歴任し、寿永2年(1183年)に内蔵頭に至るが、同年源義仲の上京を受けた一門都落ちに随い、西海へ下向した。
この時、姉妹が側室となっていた摂政・近衛基通に対して平家と行動をともにするよう再三の説得を試みるが、最終的に断念し独り一門の後を追ったとされる。
一門が壊滅した元暦2年1185年の壇ノ浦の戦いにおいて捕虜となり、都へと連行される。
この際同じく捕虜となった平宗盛、平時忠らが都大路を引き廻されたのに対し、信基は合戦で負傷していたために辛うじてこの屈辱を免れたという。
その後審議を経て、備後国へ流罪となる。
文治5年(1189年)には赦免されて帰京するが、その後は任官せず蟄居生活を送った。
弟の信季の子平親輔を養子として後を継がせたが、その子孫は後世において西洞院家、平松家、交野家など数家に分かれて繁栄した。