平島公方 (Hirashima Kubo)
平島公方(ひらしまくぼう)(又は阿波公方)は、血統的には室町幕府11代征夷大将軍・足利義澄の次男足利義維の末裔で、家柄的には、足利義視から義稙、そして義維と続く将軍家別家である。
代々阿波国平島(阿南市那賀川町古津)に住した。
なお、公方と称されるものの、この平島の系統で実際に将軍職に就任したのは第14代将軍足利義栄のみで、義栄以外の人物には将軍家一族という意味で使われる。
概要
戦国時代
御輿から堺公方まで
明応の政変に加え、永正の錯乱まで勃発すると、足利氏の将軍職争いに細川氏の管領職争いまで絡んだため、畿内の戦乱は複雑化し、長引いた。
やがて将軍職が12代・足利義晴で1本化されようとも、細川氏では細川高国と細川晴元が、なおも管領職をかけて争い続けていた。
その際、義晴将軍を名目上であろうと担ぎだした場合には、現職の管領(高国側)が官軍となり、他方(晴元側)が賊軍となってしまう。
そこで、足利義維が必要とされた。
足利義維を担ぐ事で、賊軍としての立場が和らぐのである。
その義維としても、あわよくば将軍への道が拓けようというのだから、積極的に関わったとも察せられる。
そして、大永7年(1527年)の桂川原の戦いで敗退した高国が、掌中の玉・義晴将軍を伴って近江国坂本へ逃亡したため、立場を逆転させた義維・晴元体制は、和泉国で新政権樹立の足掛かりを築くまでになる(堺公方)。
堺公方の消滅
挽回を期する管領・細川高国を摂津国にて撃破、自害にまで追い込んだ晴元であったが、この後は徐々に変心。
空位となった管領の座に転がり込んだばかりか、突如として義維を棄て、義晴将軍を推戴する側に回ってしまったのである。
しかも、新管領・晴元は自らの保身に余念無く、それまで晴元軍の中核であった最有力被官・三好氏の弱体化を図り、和泉国の顕本寺 (堺市)を敵対宗派の一向一揆に襲わせている。
顕本寺を根拠地としていた三好氏の総帥・三好元長は、義維を阿波国へ逃がし、自らは自害して果てた。
こうして、堺公方は消滅。
将軍就任の夢を断たれた義維は、阿波平島で閉塞。
義維の血統が「平島公方」と呼ばれる起源となった。
義維から義栄へ
元長の遺児・三好長慶は長い歳月をかけて亡父以上に勢力を伸ばすと、終には晴元を追い落とし、幕府の相伴衆に上り詰めた。
実質、幕政の中枢を握ったに等しい事態である。
その間、平島公方の血統は三好氏の庇護を受け、いざと言う時の「切り札」として養われ続けていたとはいえ、将軍への道を拓かれずに過ごしていた。
やがて、長慶の死去に伴い、三好氏では三好三人衆による指導体制に移行されたが、幕政からの三好氏排除を目論む13代将軍・足利義輝への対応に苦慮するようになる。
困り果てた末に、永禄8年5月19日_(旧暦)(1565年6月17日)には二条城を襲撃、義輝将軍を弑逆するという暴挙に出た(永禄の変)。
将軍に退位を迫る事があっても、命を奪うまでの行為は言うなれば『禁じ手』であったが、平島公方の存在が実行に踏み切らせた一大事件でもある。
新将軍に迎えられるに当たって、堺公方消滅時には20歳余と若かった義維は既に60歳近くなっていたため除外され、その長子・足利義栄(左馬頭に叙任され、義栄へ改名)が擁立された。
ところが、三好三人衆が松永久秀との内部権力抗争に明け暮れ、義栄の将軍就任への働きを疎かにした。
結局、将軍に就けたのは永禄11年2月8日_(旧暦)(1568年3月16日)。
前将軍・義輝襲撃から、2年半以上の歳月が流れている。
しかもその間、義栄は入京さえ儘ならず、将軍宣下を受けても、なおも摂津国に留まり続けていた。
患っていた腫れ物を悪化させていた事も影響した、との説もある。
しかも、将軍就任に向けて無駄に歳月を浪費した事態は、新体制を固めきれない三好政権には好ましくない結果をもたらした。
同年9月、前将軍・義輝の実弟である足利義昭を推戴する織田信長が上洛軍を発したのである。
近江国の六角氏を退けて進軍する織田氏とは、「義栄を戴いての決戦」を選択肢に残していた三好氏ではあったが、結局は阿波国への退避を選択した。
(義栄の病没により断念した可能性もある。)
その後も、織田氏への抵抗を幾度も示した三好氏ではあったが、戦局の悪化により畿内復権の道は閉ざされた。
義栄が死去しても、弟の足利義助によって家命は存続された。
だが、義昭政権の後ろ盾であった信長軍は三好氏が単体で退けるには強固であった点に加え、その後も没落していった三好氏との結びつきが余りにも強すぎた点を懸念されてか、平島公方は、その存在価値を次第に失っていったのである。
織豊時代から江戸時代まで
織田信長に擁立された足利義昭とは対立関係にあった家系のため、安土桃山時代および江戸時代でも冷遇されていた。
江戸期以降では阿波徳島藩主・蜂須賀氏の客将として扱われたものの、その蜂須賀氏からは下級藩士並みの微禄しか受けられず、しかも足利氏の家名を平島氏に改姓させられるなどの一層の冷遇を受けた。
同じ足利氏の後裔でも、大名・喜連川氏として存続できた鎌倉公方家の後裔とは対照的である。
そのような不遇下でも、歴代当主の中には漢籍などに長けた者(義宜)などが多く、一大文化サロンのようなものを形成していたこともあった。
しかし文化_(元号)2年(1805年)、あまりの冷遇に耐えかねた9代足利義根は、遂に蜂須賀家から離反して阿波を去り、姓を足利に戻した。
その後は京都に居を定め、等持院など足利氏ゆかりの寺院からの援助で細々と食いつないでいたという。
平島在所時代の墓所は、西光寺(阿南市那賀川町)。
明治以降
明治後、足利将軍家の正当な末裔として爵位を求めたが、領地であった阿波から離脱していたなどの理由をもって却下されたうえ士族にさえ成れず、平民身分とされた。
ただ、その足利家の直系として扱われていた喜連川氏が、養子を受け入れて存続していることに対し(傍系細川氏からの養子縁組)、初代源義康からの血を絶やさず受け継いでいるのは、この平島公方家である。
歴代平島公方
足利義維(よしふね、別名 義維)
足利義助(義栄の弟)
足利義種
平島義次通称又八郎
平島義景
平島義辰
平島義武通称熊八郎
平島義宜
足利義根 文化 (元号)2年(1805年)に京都へ移る。
足利義俊
足利義孝
足利義廉
足利進悟 (1908年 - 2003年)前全国足利氏ゆかりの会特別顧問
足利義弘(現当主)現特別顧問 創造学園大学教授
足利家文書
平島公方家に伝えられた中世・近世文書群である「阿波足利家文書」は、徳島県旧那賀川町で町史編纂にあたり調査が行われた。
現在その一部は阿南市立阿波公方・民俗資料館に寄託され、常設展示されている。