平忠常 (TAIRA no Tadatsune)
平 忠常(たいら の ただつね)は平安時代の人物、武士。
父は陸奥国介平忠頼で、房総平氏の祖。
概要
祖父の平良文は武蔵国村岡に土着して村岡五郎と称して、下総国相馬郡 (下総国)の大半を所領とした。
父の忠頼も関東で有力な武士として名をはせた。
忠常は祖父と父の地盤を引き継ぎ、常陸国、上総国、下総国に広大な所領を有した。
上総介(『日本紀略』による。『応徳元年皇代記』には下総権介)、武蔵押領使に任官されている(これらの官に任官はされず自称という説もある)。
諸系図では下総国千葉郡にて千葉小次郎と称したと言うが、不明である。
京に上り藤原教通(藤原道長の次男)に仕えていた形跡がある。
忠常は強大な武力を背景に傍若無人に振る舞い、国司の命に従わず租税も納めなかったとされる。
官軍との戦い
長元元年(1028年)6月、忠常は安房国の国府を襲い、安房守平惟忠を焼き殺す事件を起こした。
原因は不明だが受領との対立が高じたものと思われる。
朝廷は忠常追討を命じ、追討使平直方が派遣された。
官軍を相手に忠常は頑強に抵抗した。
乱は房総三カ国に広まり、合戦の被害と官軍による強引な徴発により大いに疲弊した。
(平忠常の乱)
長元3年(1030年)9月、平直方が解任され、甲斐国守源頼信が追討使に任じられた。
長期にわたる合戦で忠常の軍は疲弊しきっており、長元4年(1031年)春に忠常は出家して常安と称し、子2人と従者をつれて頼信のもとへ出頭して降伏した。
同年6月、京へ連行される途上の美濃国野上で病没した。
忠常の首ははねられ、京都で梟首とされたが、後に首は親族へ返されている。
子の平常将と平常近も罪を許された。
忠常の子孫は房総半島の有力武士として残り、後に鎌倉幕府の御家人となる上総氏、千葉氏が出た。