平知盛 (TAIRA no Tomomori)
平 知盛(たいら の とももり)は、平安時代末期の武将。
平清盛の四男。
母は平時子。
同母兄弟に平宗盛、平重衡、平徳子がいる。
官位は従二位中納言。
世に新中納言と称された。
生涯
平氏の全盛期に清盛の正室・平時子を母として生まれ、わずか8歳で従五位下となり、その後も栄進していく。
知盛は武蔵国の国司・知行国主として、同国から多数の平氏家人を獲得した。
武蔵は源氏の勢力が強い地域であり、知盛の武将としての才能・人間的魅力が大きく作用したと思われる。
兄の重盛・宗盛は後白河に対して優柔不断であったため、清盛は知盛に期待をかけたらしく「最愛之息」と呼ばれた(『玉葉』)。
治承4年(1180年)12月、美濃国と近江国で源氏が叛乱を起こした時には総大将として鎮圧にあたった。
知盛はその後、清盛の命令で東国追討も命じられたが、この時に病に倒れて京都に戻ることを余儀なくされた。
治承5年(1181年)閏2月4日、清盛が死去する。
清盛の後は同母兄の宗盛が継いだ。
知盛は、同母弟の重衡とともに宗盛を補佐した。
同年10月の平氏遠征軍の編成は、北陸道は知度・清房(宗盛の異母弟)・重衡・資盛、東海道・東山道は維盛・清経(重盛の子)、熊野は頼盛の子息2名、最も重要な洛中守護は宗盛・教盛・経盛・頼盛・知盛が担当した(『玉葉』10月10日条)。
この時、宗盛とともに洛中に留まった者が政権中枢にあったと考えられる。
寿永2年(1183年)2月、宗盛が内大臣を辞任する際、宗盛のもとに知盛・重衡・頼盛・時忠・親宗が集まっている(『吉記』2月27日条)。
知盛が、平氏一門において中枢を担っていたことがうかがえる。
寿永2年(1183年)、倶利伽羅峠の戦いで平氏軍が壊滅すると、知盛は宗盛とともに都落ちを決める。
翌寿永3年(1184年)2月7日、一ノ谷の戦いで大敗して子の平知章を失った。
元暦2年(1185年)3月24日、壇ノ浦の合戦で平氏滅亡の様を見届けた知盛は、海へ身を投げ自害した。
享年34。
なお、平氏滅亡後に反乱を起こす平知忠は、知盛の息子である。
碇知盛
このとき、知盛は碇を担いだとも、鎧を二枚着てそれを錘にし、「見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん」と言い残して入水したとも言われている。
共に入水後遺体となるか、あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。
これに想を得た歌舞伎『義経千本桜』の「渡海屋」および「大物浦」は別名「碇知盛」(いかりとももり)とも呼ばれ、知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。
官歴
※日付=旧暦
保元4年のち改元して平治元年(1159年)(8歳)
正月7日蔵人
正月21日従五位下
平治2年のち改元して永暦元年(1160年)(9歳)
2月28日武蔵守
応保2年(1162年)(11歳)
9月28日左兵衛権佐
長寛2年(1164年)(13歳)
正月5日従五位上
永万2年のち改元して仁安 (日本)元年(1166年)(15歳)
8月27日正五位下
10月10日春宮大進(東宮・憲仁親王)
10月21日中務権大輔。
春宮大進・武蔵守如元
右近衛権少将
仁安2年(1167年)(16歳)
2月11日従四位下。
武蔵守如元
12月30日武蔵守を辞任(後任・平知重)
仁安3年(1168年)(17歳)
正月6日従四位上(平盛子御給)
2月19日新帝(高倉天皇)昇殿
3月23日左近衛権中将
8月4日正四位下(後白河上皇御給)
安元3年のち改元して治承元年(1177年)(26歳)
正月24日従三位。
左中将如元
治承2年(1178年)(27歳)
正月28日丹波権守兼任
治承3年(1179年)(28歳)
正月19日春宮権大夫。
右兵衛督
8月春宮権大夫を辞任(重盛の死去)
9月5日正三位。
春宮権大夫に復任
10月9日左兵衛督
治承4年(1180年)(29歳)
2月21日春宮権大夫を辞任(安徳天皇践祚)
2月25日新院(高倉上皇)別当。
御厩別当
治承5年のち改元して養和元年(1181年)(30歳)
2月左兵衛督を辞任
3月26日参議に補任。
左兵衛督に復任
9月23日参議を辞任
養和2年のち改元して寿永元年(1182年)(31歳)
3月8日左兵衛督を辞任
10月3日権中納言
10月6日帯剣を許される
11月23日従二位(建礼門院御給)
寿永2年(1183年)(32歳)
8月6日解官