平資盛 (TAIRA no Sukemori)

平 資盛(たいら の すけもり)は、平安時代末期の武将。
平重盛の次男、母は藤原親盛の娘。
位階は従三位まで昇叙。

和歌に優れ「新勅撰和歌集」「風雅和歌集」に名を残している。
叔母である平徳子に仕える優れた歌人の建礼門院右京大夫と恋仲であった。
平氏一門の全盛期に、当時13歳(もしくは10歳)の資盛が関わった殿下乗合事件は、『平家物語』に「これこそ、平家の悪行のはじまり」として描かれている。

生涯
嘉応2年(1170年)7月3日、摂政・松殿基房の車と行き違った時に下馬の礼をとらなかったため、基房の家来と乱闘騒ぎを起こして資盛は恥辱を受けて逃げ帰った。
これを知った父・平重盛が基房に対して徹底的な報復を行っている(殿下乗合事件。
なお平家物語においては報復を行ったのは祖父の平清盛となっているが、これは清盛を悪役、重盛を平氏一門の良識派として描写する『平家物語』の演出の都合上の創作と言われている)。
この時の九条兼実の日記『玉葉』には資盛を「嫡男」と記されており、また同年12月以前においては異母兄であるとされている平維盛よりも官位で上回っていた事から当初は重盛の嫡男として扱われていたと見られている。

治承4年(1180年)年5月の以仁王の挙兵に際して、叔父の平知盛、平重衡、兄の維盛らと出陣し、源頼政と平等院で戦いこれを滅ぼした。
同年12月、知盛とともに近江国へ出陣して山本義経を破る。

一門都落ち
寿永2年(1183年)7月、平氏は源義仲に敗れ都落ちを余儀なくされる。
『愚管抄』によれば、このときに資盛は寵愛されていた後白河法皇に都に残る許しを求めて拒絶されている。
『平家物語』の「太宰府落」で資盛は元重盛の家人であった豊後国の緒方惟義の説得工作に向かって追い返されているが、『玉葉』の寿永3年2月19日条に資盛と平貞能が豊後国の住人によって拘束された風聞が記されている。

寿永3年(1184年)正月、一時勢力を回復した平氏は摂津国・福原京まで進出。
正月末に義仲を滅ぼした源頼朝の代官源範頼・源義経の軍勢が平氏追討に向かう。
資盛は弟の平有盛、平師盛、平忠房と播磨国三草山に陣を置くが源義経の奇襲を受け、讃岐国・屋島へ敗走した(三草山の戦い)。
その直後の2月7日、一ノ谷の戦いで平氏は一門の多くを失う致命的な大敗を喫する。

同年3月、一ノ谷の合戦前後に戦線を離脱した兄の維盛が那智の沖で入水自殺する。
この知らせを受けた資盛は大いに嘆き悲しんだ。
すでに弟の平清経が豊後国で入水自殺しており、一ノ谷では14歳の師盛が討ち死にしている。
末弟の平忠房は維盛の戦線離脱の際に同行していたと見られる。
清経と維盛の入水を知った建礼門院右京大夫から慰める手紙を受け取った資盛は、「今はただ自分の命も今日明日の事なので、ものを思う事をやめようという心境です」と返事を送った。
兄弟の死については「あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かく憂きことを 見るぞかなしき」(生きていることが生きていることにもならない、この世のうちにあって、その上こんなつらい目にあうのは悲しいことです)と詠んでいる。
これが右京大夫への最後の便りとなった。

同年12月、資盛は備前国児島で源範頼と戦い敗北(藤戸の戦い)。
元暦2年(1185年)3月24日、平氏は壇ノ浦の戦いで敗れ、滅亡に至った。
平氏西走の道中、兄弟が次々と脱落していった中で最後まで一門として踏みとどまった資盛は、一人残った弟の有盛と従弟の平行盛とともに壇ノ浦の急流に身を投じて自害した。
享年25。
(もしくは28)

資盛の死を悲しんだ建礼門院右京大夫は供養の旅に出た。
彼女の作品『建礼門院右京大夫集』には彼女と資盛が交わした歌が多く残されている。

奄美諸島の喜界島には資盛がこの島まで落ち延びたという伝説が残っている。

信長を輩出した織田氏は資盛の末裔を自称している。

遺言
平氏一門の都落ち直前、密かに建礼門院右京大夫と会っていた資盛は、日頃からの口癖として彼女に以下のような事を言い残している。
この頃の資盛は心の余裕のない様子だったという。

「こういう世の中になったからには、自分の身が儚くなるであろう事は間違いないだろう。
そうなったら、あなたは少しくらいは不憫に思ってくれるだろうか。
たとえ何とも思わなくても、あなたと親しくなって長いつきあいだから、その情けで、後世を弔ってほしい。
もし、命が今しばらくあったとしても、今はいっさい昔の身とは思わないと心に堅く決めている。
そのわけは、それが不憫であるとか、名残が惜しい、あの人の事が気がかりなどと考え始めたら、思うだけでもきりがないであろうから。
心弱さもどのようであるかと我ながら自信がないから、今後は何事も思い捨てて、どこの海にあってもあなたのところへ手紙を出したりするまいと決心しているので、おろそかに思って便りもしないとは思わないで下さい。
万事、もう今から死んだと同じの身になったと心を決めたはずなのに、やはりともすれば以前の気持ちになってしまいそうなのが、とても口惜しい。」

官歴
※日付=旧暦
永万2年のち改元して仁安 (日本)元年(1166年)
11月21日従五位下
12月30日越前守

仁安4年のち改元して嘉応元年(1169年)
正月5日従五位上(皇太后・平滋子御給)

嘉応3年のち改元して承安 (日本)元年(1171年)
4月7日越前守重任

承安4年(1174年)
12月4日侍従兼任

承安5年のち改元して安元元年(1175年)
正月22日越前守得替
12月8日正五位下

治承2年(1178年)
12月24日右近衛権少将。
侍従を辞任

治承3年(1179年)
正月2日従四位下(上西門院御給)

治承4年(1180年)
4月8日従四位上(高倉上皇の福原御幸)

治承5年のち改元して養和元年(1181年)
5月26日正四位下(上西門院御給)
10月12日右近衛権少将を辞任
10月29日右近衛権中将

寿永2年(1183年)
正月22日蔵人頭
7月3日従三位。
右近衛権中将如元

8月6日解官

[English Translation]