広幡前秀 (HIROHATA Sakihide)
広幡 前秀(ひろはた さきひで、宝暦12年12月2日 (旧暦)(1763年1月15日) - 文化 (元号)5年6月19日 (旧暦)(1808年7月12日))は、江戸時代中期の公卿。
後桃園天皇(118代)・光格天皇(119代)の二朝にわたり仕えた。
官位は正二位大納言までのぼった。
父は広幡前豊。
母は伏見宮貞建親王の王女。
妻は稲葉正諶の娘。
子に広幡経豊。
初名は前基。
安永3年(1774年)に叙爵。
以降累進して、右近衛権少将・右近衛権中将を歴任し、安永7年(1778年)には従三位となり、公卿に列した。
その後も踏歌節会外弁・東照宮奉幣使・中納言などを歴任。
寛政元年(1789年)に大納言となり、文化5年(1808年)の薨去までの長きにわたり務めた。