広幡経豊 (HIROHATA Tsunetoyo)
広幡 経豊(ひろはた つねとよ、安永8年6月25日 (旧暦)(1779年8月7日) - 天保9年8月23日 (旧暦)(1838年10月11日))は、江戸時代後期の公卿。
光格天皇(119代)・仁孝天皇(120代)の二代にわたって仕えた。
官位は従一位内大臣まで昇った
父は大納言広幡前秀。
母は淀藩主稲葉正諶の娘。
養父に右大臣近衛経煕がいる。
妻は今出川実種の養女(日野資矩の娘)。
子に内大臣広幡基豊、娘に左近衛権中将園池実達室、文章博士唐橋在経室がいる。
寛政2年(1790年)従五位下に叙爵。
以降清華家の当主としてはやいスピードで昇進して、侍従・左近衛権少将・右近衛権中将・中宮権亮となり、寛政7年(1795年)には従三位となり公卿に列する。
文化 (元号)8年(1811年)には光格天皇中宮欣子内親王の中宮権大夫となり、文化9年(1812年)には踏歌節会外弁をつとめ、また大納言となった。
文政4年(1821年)に踏歌節会内弁をつとめる。
文政7年(1824年)には内大臣に任じられるも辞職する。
文政8年(1825年)に従一位を授与された。