広橋光成 (HIROHASHI Mitsushige)

広橋 光成(ひろはし みつしげ、寛政9年1月26日 (旧暦)(1797年2月22日) - 文久2年閏8月6日 (旧暦)(1862年9月29日))は、江戸時代の公家。
広橋胤定の子、母は葉室頼熈の娘。
室は飛鳥井雅之の娘。

京都で誕生する。
寛政10年(1798年)2歳で従五位下、享和2年(1802年)元服し、従五位上。
のち蔵人頭、弁官、右中弁を歴任。
文政7年(1824年)参議・右大弁、左大弁、文政11年(1828年)中納言、弘化2年(1845年)正二位大納言と昇進を重ねる。

天保6年(1835年)議奏を経て、安政4年(1857年)武家伝奏となる。
翌年、条約勅許問題では朝幕間の調停に努めた。
その後も和宮親子内親王降嫁などに腐心する。
文久2年(1862年)准大臣に昇進するも、同年没した。

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