当摩広島 (TAIMA no Hiroshima)
当摩広島(たいまのひろしま、天武天皇元年(672年)6月または7月)は、日本の飛鳥時代の人物である。
名はたぎまとも読む。
旧仮名遣いでの読みは同じ。
姓(カバネ)は公。
672年の壬申の乱のとき吉備国の守だったが、大友皇子(弘文天皇)が遣わした使者に殺された。
当摩氏(当麻氏)は用明天皇の子孫にあたる皇族系の氏族である。
当摩公広島は、壬申の乱が勃発したときに吉備国の守であった。
吉備に軍を発するよう命じる使者を出した大友皇子は、広島がかつて大海人皇子(天武天皇)の下についていたことから、広島も反乱に同調するのではないかと疑った。
そこで大友皇子は「もし服従しない様子があったら、殺せ」と使者の樟磐手に命じた。
磐手は吉備国について符(命令書)を授ける日に、広島を欺いて刀を解かせた。
それから自分の刀を抜いて広島を殺した。