徳川光圀 (TOKUGAWA Mitsukuni)

徳川 光圀(とくがわ みつくに)は、江戸時代の常陸国水戸藩第2代藩主。
水戸黄門としても知られる。

諡は「義公」、字は「子龍」、俳号は「梅里」。
また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。

水戸藩初代藩主徳川頼房の三男、母は側室・谷氏。
徳川家康の孫に当たる。
藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地の探検などを行った。
後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手した。
古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。
また、徳川氏の長老として、征夷大将軍徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。

同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立している。
江戸時代後期から近代には白髭と頭巾姿で諸国を行脚してお上の横暴から民百姓の味方をするフィクションとしての黄門漫遊譚が確立する。
水戸黄門は講談や歌舞伎の題材として大衆的人気を獲得した。
昭和には映画やテレビドラマなどの題材とされた。
(水戸黄門の項を参照)。
テレビドラマに関しては、今でも続いている。
『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣した。
隠居後に水戸藩領内を巡視した。
こうした話などから諸国漫遊がイメージされたと思われる。
だが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがない。
現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。

現在では光圀伝承を排除した実証的光圀像の検討も行われている。
光圀の主導した多方面の文化事業が評価されている。
一方で、為政者としては文化事業が招いた光圀以降の藩財政悪化が指摘されている。

生涯

寛永5年(1628年)6月10日、水戸徳川家当主・徳川頼房の三男として水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。
光圀の母は家臣谷重則の娘である谷久子である。
『桃源遺事』によれば頼房は三木夫妻に対して久子の堕胎を命じた。
だが、三木夫妻は主命に背いて密かに出産させたという。
光圀を妊娠した際に父の頼房はまだ正室を持ってはいなかった。
後年の光圀自身が回想した『義公遺事』によれば、母の久子は奥付きの老女の娘であった。
頼房の寵を得て懐妊する。
だが、頼房の側室であるお勝(円理院、佐々木氏の娘)がこれに機嫌を損ねた。
このため頼房は堕胎を命じた。
同じく奥付老女として仕えていた三木之次の妻武佐が頼房の准母である英勝院(お勝、英勝院)と相談した。
密かに自邸で出産したという。
また、光圀の同母兄である松平頼重出産の際にも同様の先例があったという。

『西山遺文』によれば幼少時には三木夫妻の子として育てられたと言われる。
光圀の侍医井上玄桐の記した『玄桐筆事』には生誕後間もない光圀と頼房が対面していることを伺わせる逸話を記している。
また、『桃源遺事』『義公遺事』『玄桐筆事』などの伝記史料には幼少時からの非凡を示す逸話が記されている。

寛永9年(1632年)に光圀と兄(頼重)の存在が明らかになり水戸城に入城した。
翌寛永10年(1633年)11月に光圀は世子に決定した。
翌月には江戸小石川藩邸に入り世子教育を受ける。
世子内定の時期や経緯は諸書で若干異なっている。
だが、頼房の付家老中山信吉(備前守)が水戸へ下向して行われている。
3代征夷大将軍徳川家光や英勝院の意向もあったという。
翌寛永11年(1634年)には英勝院に伴われて江戸城で将軍家光に拝謁している。
寛永13年(1636年)には元服し、将軍家光からの諱を与えられて光国と改める。

承応3年(1654年)には前関白近衛信尋の次女・近衞尋子(泰姫)と結婚。
明暦3年(1657年)、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。

寛文元年(1661年)8月19日、常陸国水戸藩28万石の2代藩主となる。
弟・松平頼元に常陸国那珂郡2万石(額田藩)を分与し、26万石となる。

水戸下町住民は飲料水に不自由であった。
藩主就任直後の寛文2年(1662年)、町奉行望月恒隆に水道設置を命じた。
笠原から細谷まで全長約10kmの笠原水道が翌年完成した。

寛文3年(1663年)、史局を小石川後楽園に移し、彰考館とする。

延宝7年(1679年)、諱を光圀に改める(光圀52歳)。

元禄3年(1690年)10月14日に隠居し、藩主の座を徳川綱條に譲る。
元禄4年(1691年)、西山荘に隠棲した。
元禄5年(1693年)には水戸藩の藩医であった穂積甫庵(鈴木宗与)に命じて救民妙薬を編集し、薬草から397種の製薬方法を記させた。
元禄7年(1694年)11月23日、幕閣や諸大名を招いて行われた能舞興行の際、人払いをした密室で重臣の藤井紋太夫を刺殺した。
理由は不明だが、藤井が柳沢吉保と結んで光圀の失脚を謀ったためとも言われている。

72歳頃より食欲不振が目立ち始める。
元禄13年(1700年)12月6日に食道癌のため死去。
享年73(満71歳没)。

光圀は、兄(頼重)を差し置いて藩主になったことを後悔していたといわれる。
後継に兄の子(徳川綱方)を養子に迎え世継ぎとした。
だが、夭折したためその弟・綱條を養子に迎え世継ぎとした。
また、光圀には側室との間に実子(松平頼常)がいたが、この実子は兄の養子に出していた。

光圀の人物像

幼少時には、兄(頼重)を差し置いての世子決定が光圀の気持ちに複雑なものを抱かせたといわれる。
少年時代は町で刀を振り回したりする不良行為少年な振る舞いを行っていた。
吉原遊廓通いも頻繁にしていた。
さらには辻斬を行うなど蛮行を働いている。
しかし光圀18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受ける。
これにより学問に精を出すこととなる。
しかしながらその強い性格、果断な本質は年老いても変わることはなかった。

光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。
肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、ヒツジなどを食べていた。
さらに、野犬50匹を捕らえてその毛皮を綱吉に献上したこともある。

また、オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示した。
朱舜水を招き、海外からオタネニンジンやインコを取り寄せ、育てている。
蝦夷地探索のためネグロイドを2人雇い入れ、そのまま譜第の家臣にしてしまってもいる。
他に水戸に来た中国人(もしかしたら清朝から亡命して来た漢民族)も譜代の家臣か使用人にした。

サケも好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。
さらに、吉原遊郭近郊の浅草界隈で見た手打ちうどんの技術を自ら身につけ、うどんを打つこともあったという。

当時の人物としては普通に衆道のたしなみもあった。
光圀は政治を例えて「男色ではなく女色のようにしなければならない」と言った。
女色は両方が快楽を得るが男色は片方だけ快楽であり片方にとっては苦痛でしかない。
政治は女色のように為政者も民も両方が快楽を得るようにしなくてはならないという意味である。

『大日本史』完成までには光圀の死後250年もの時間を費やすこととなった。
光圀の事業は後の水戸学と呼ばれる歴史学の形成につながり、思想的影響も与える。
延宝2年(1674年)には、父・頼房の実母(養珠院)の墓参りと、頼房の准母(お勝の方)の三十三回忌供養のため、鎌倉に出向く。
この鎌倉までの日記を『甲寅紀行』(1674年)、『鎌倉日記』(同年)として纏め上げた。
更に貞享2年(1685年)には、「鎌倉日記」を基にした地誌『新編鎌倉志』の編纂を家臣の河井恒久らに命じる。

元禄5年(1692年)には、南北朝時代 (日本)に湊川の戦いで戦死した楠木正成の功績を称え、同地に墓石を建立。
(光圀65歳)。
墓石には、光圀の自筆で「嗚呼忠臣楠氏之墓」と記されている。
なお、その場所は明治5年(1872年)、明治天皇によって湊川神社が建立され、昭和30年(1955年)には光圀の銅像も建立されている。

光圀にみる水戸徳川家の地位

大日本史の編纂により、水戸藩は年間財政収入の三分の一近くをこの事業に注ぎ込むこととなる。

財政難に陥った水戸藩は、光圀の死後、光圀の養子・綱條が財政改革に乗り出す。
しかし水戸藩領全体を巻き込む大規模な一揆を招き、改革は失敗する。
これにより水戸藩は、老中や譜代大名から「綱條公は将軍の器にあらず」との認識を持たれることとなった。
享保元年(1716年)に将軍・徳川家継の後継者選びが行われた。
綱條が徳川御三家の当主の内、最年長であるにも関わらず、紀州藩主・徳川吉宗が後継者に選ばれた。

以後、水戸徳川家からは将軍を出さなかった。
将軍の補佐役として参勤交代を行わず江戸に定府することとなる。
常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は(俗に)「(天下の)副将軍」と呼ばれるようになる。
結局、2代目藩主・光圀以降、9代藩主・徳川斉昭の七男・徳川慶喜が将軍職に就くまで、水戸徳川家からは将軍職に就く者はいなかった。
また、慶喜は一橋家に養子に出され、そこから将軍職に就いたので、系譜上では水戸徳川家から直接将軍に就いた訳ではない。

光圀の学芸振興が「水戸学」を生み出して後世に大きな影響を与えたことは高く評価されるべきである。
だが、その一方で藩財政の悪化を招いた。
ひいては領民への負担があり、そのため農民の逃散が絶えなかった。
一説には光圀時代は年貢比率が八公二民の超重税を強いたと言われる。
結果的には「水戸学」が目指した“愛民”の理想からは逸脱してしまった側面も存在しる。
単純に「名君」として評することはできない。

水戸徳川家は、徳川氏が天皇(朝廷)と対立した場合、徳川の血筋を残すために天皇側につくように定められていた。
将軍を出さないよう決められていたとの考え(井沢元彦『逆説の日本史』など)もある。
それを変えたのが8代将軍吉宗である。
出自の紀州徳川家の地位を向上させ、御三家と同種の機能を持つ御三卿を創始するなどした。
徳川宗家と御三家の立場やあり方を変えてしまったことに原因があるようだ。
そのため出るはずのなかった水戸徳川家からの将軍が出ることになった。

年譜

※日付=明治5年(1872年)12月2日までは旧暦

系譜

父:徳川頼房

母:谷重則の娘・谷久子

正室:近衛信尋の娘・近衞尋子(泰姫)

側室:玉井氏

長男:松平頼常

長女:戸田光規室

父・頼房や同時代の他の大名と比較して、長命を全うした大名としては非常に寂しい家族関係である。
幼少時の扱いがトラウマとして影を落としたのではないかという説もある。

墓所

- 常陸太田市瑞竜町の瑞龍山にあり、現在、日本最大の儒式墓所となっている。
現在、日本最大の儒式墓所となっている。


- 母の菩提寺である常陸太田市新宿町の靖定山久昌寺の義公廟がある。

奉斎神社

- 水戸市常磐町鎮座の常磐神社に主祭神として祀る。

[English Translation]