成瀬正義 (NARUSE Masayoshi)
成瀬 正義(なるせ まさよし)は、戦国時代 (日本)の武将。
徳川家康の家臣。
生涯
成瀬正頼の長男として生まれ、家督相続後は木戸城主、六名城主となる。
徳川家康に仕え、使番・旗奉行を兼任する形で任命されて家康の主要な合戦の多くに参加した。
永禄5年(1562年)に同僚を斬り出奔するが、三河一向一揆がはじまると帰参を許され、一揆鎮圧に当たる。
永禄11年(1568年)の織田信長の上洛では、織田氏への援軍の将として参戦し、六角氏の蓑作城攻めで武功を挙げた。
元亀元年(1570年)の姉川の戦いにも参加して武功を挙げた。
元亀3年(1572年)12月22日、三方ヶ原の戦いでは旗奉行として家康本陣を守り武田信玄軍と戦い奮戦した。
だが、武田氏の武将・馬場信春隊の突入を防ぐために、後事を弟・成瀬正一 (戦国武将)に託し、家康の身代わりとして討ち死にした。
成瀬氏の家督は正一が継いだ。
三方ヶ原の戦いの前夜、物見に出た鳥居忠広が武田勢の多さに篭城を主張した
これに対して、腰抜けと言ったために喧嘩となるが仲直りする。
この話は講談「湯水の行水」として知られている。
正義が戦死した地は、今でも成瀬谷と呼ばれている。
異説
正義は三方ヶ原の戦いでは討ち死にせずに生き残り、息子と共に出家して戦死者の供養をしたとの言い伝えもある。