斎村政広 (SAIMURA Masahiro)

斎村 政広(さいむら まさひろ、永禄5年(1562年)- 慶長5年10月28日 (旧暦)(1600年12月3日))は、安土桃山時代の武将。
父は赤松政秀、母は赤松晴政の娘。
はじめ赤松姓を名乗り、初名を赤松広通・広秀・広英といった。
播磨国龍野城、のち但馬国竹田城を居城とした。
通称を弥三郎。
官名は従五位下左兵衛佐。
室は宇喜多直家の娘(宇喜多秀家の妹)。
子に次郎右衛門、善右衛門。

その生涯

1570年に父、その後、兄赤松広貞も相次いで早逝したため家督を継承した。
政広の家系の赤松氏は、血統上は本家である赤松義祐の家系よりも、むしろ本流の赤松氏であった。
織田信長の命を受けた豊臣秀吉による中国征伐では、はじめ抵抗するも後に降伏。
秀吉に従って蜂須賀正勝の配下となった。
その後、小牧・長久手の戦いなどに参戦して武功を挙げ、但馬国竹田城2万2000石を与えられた。
九州征伐や小田原の役、文禄・慶長の役などにも参戦している。

また、儒教藤原惺窩に教えを受けるなど、文学人としての一面もあった。

1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に味方し、細川幽斎の居城である丹後国田辺城 (丹後国)を攻めた(田辺城の戦い)。
しかし、関ヶ原で西軍が敗れると東軍に寝返って、西軍に与した宮部長房の居城・因幡国鳥取城を攻めた。
しかし、このときの城下焼き討ちが後に問題となり、戦後、徳川家康から切腹を命じられ、鳥取の真教寺で自刃した。
ただし、この焼き討ちは鳥取城攻めの指揮を執っていた亀井茲矩の策であり、実行した政広一人に罪を擦り付けたとする説がある。

因みに斎村姓は、父の政秀の死後、一時避難をしていた才村(又は佐江村)に由来する。

[English Translation]