斎藤利三 (SAITO Toshimitsu)

斎藤 利三(さいとう としみつ)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての武将。
明智五宿老の一人。

略歴

尾張国の織田信長の家臣である明智光秀の家老として有名である。

斎藤道三以前の美濃国斎藤氏の一族。
父は斎藤利賢、母は蜷川親順の娘。
母を明智光秀の妹、光秀の姪にあたるとする説もあるが、光秀(1528年生れ)と利三(1534年生れ)の年齢差から生物学上ありえない。
ただし、明智光秀の生年(1528年)は有力な説であって、それより以前に生まれた可能性もある。
また、年上の甥、姪は生物学的に存在するので光秀の姪という説は否定できない。
その母は、石谷光政に再嫁し、娘・菜々(長宗我部元親室)をもうけた。

前室は斎藤道三の娘、後室は稲葉一鉄の娘。
子に斎藤利宗、斎藤三存。
娘の福(春日局)は稲葉重通の養女となり、江戸幕府の第3代将軍となる徳川家光の乳母となる。
通称は斎藤内蔵助。

生涯

天文3年(1534年)、斎藤利賢の次男として生まれる。

はじめ斎藤義龍、次いで稲葉一鉄に仕えた。
しかし天正8年(1580年)に稲葉一鉄と喧嘩別れし、明智光秀との縁戚関係から光秀に仕えるようになったといわれている。
光秀には重用され、明智秀満と並ぶ明智氏筆頭家老として用いられた。
光秀の丹波平定後、1万石を与えられて丹波国黒井城主となる。

天正10年(1582年)、光秀が織田信長に対する謀反(本能寺の変)を計画し、それを秀満と利三だけに打ち明けた。
秀満は賛成したが、利三はその無謀さから反対したと言われている。
しかし主君の命令には逆らえず、結局は本能寺の変に首謀者の一人として参加せざるを得なくなったとされる。

本能寺にて信長を討った後、中国地方から引き返してきた豊臣秀吉との山崎の戦いでは先鋒として活躍するが、敗れて逃走した。
その後、秀吉の執拗な捜索により近江国堅田で捕縛され、六条河原で斬首となった。
享年49。
磔刑にされたともいわれる。

首もしくは胴体は光秀とともに本能寺に晒されたと言われている。
のち利三の首は彼と親交の深かった絵師の海北友松により京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺へ葬られた。

人物・逸話

明智光秀に仕えたのはわずか2年ほどであるにも関わらず、明智光秀古参の家臣より重用されている。
これは単なる縁者関係だけではなく、斎藤利三が武将としての力量に優れていたことを示すものでもある。

現在の歴史小説などでは明智光秀の忠臣として描かれ、本能寺の変でも積極的に賛意を示したとされることが多い。
だが、反対したともいわれている。
理由は明智光秀が後世に不忠不義の臣として残ること、織田信長を討てても他の諸大名がその方法から支持しないことを見抜いていたためとされる。

稲葉氏から明智氏に鞍替えしたとき、稲葉一鉄は信長に対して斎藤利三の帰参を求め、織田信長も斎藤利三に稲葉氏への帰参を促した。
しかし明智光秀が「人がこだわるほどの良臣を蓄えなくては上様(織田信長)のもとで大功を挙げられませぬ」と述べて拒絶したとされている。

[English Translation]