斎藤実盛 (SAITO Sanemori)
斎藤 実盛(さいとう さねもり、天永2年(1111年) - 寿永2年6月1日 (旧暦)(1183年6月22日))は平安時代末期の武将。
藤原利仁の流れを汲む斎藤実直の子。
武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。
生涯
武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・源義賢という両勢力の緩衝地帯であった。
実盛は始め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。
こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう。
実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れていなかった。
義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。
この駒王丸こそが後の旭将軍源義仲である。
保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。
義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延びる。
その後平氏に仕える。
東国における歴戦の有力武将として重用される。
そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまった。
平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。
平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫する。
実盛が東国武士の勇猛さを説いた。
すると維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまった。
その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。
寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曽義仲追討のため北陸に出陣する。
が、加賀国の篠原の戦いで敗北。
味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦。
ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟していた。
「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。
そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかった。
そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせた。
すると、みるみる白髪に変わった。
ついにその死が確認された。
かつての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成している。
史跡・伝承
『平家物語』は「実盛最期」で、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。
朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。
室町時代前期の応永21年(1414年)3月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した。
その4日目のことだった。
滞在布教中の時宗の遊行14世太空のもとに、白髪の老人が現れた。
十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという。
これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたった。
太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。
この話は、当時京都にまで伝わっている。
「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記『満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。
そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲『実盛』として作品化されている。
以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化した。
実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている。
また、江戸時代の元禄年間に刊行された、『奥の細道』の松尾芭蕉も、当地を訪れて実盛を偲んだ。
今も多太神社に現存する実盛の甲を見て「むざんやな 甲の下の きりぎりす」と句を詠んでいる。
同じく寛延2年(1749年)初演の人形浄瑠璃(後に歌舞伎化)『源平布引滝』では、青年期の実盛が幼年の義仲と対面する。
将来の対決を予感する場面が「実盛物語」の場として描かれている。
実盛が討たれる際、乗っていた馬が稲の切り株につまずく。
そこで討ち取られたために、実盛が稲を食い荒らす害虫(稲虫)になったとの言い伝えがある。
そのため、稲虫(特にウンカ)は実盛虫とも呼ばれる。