斎藤道三 (SAITO Dosan)

斎藤 道三 / 斎藤 秀龍(さいとう どうさん / さいとう ひでたつ)は、戦国時代 (日本)の武将。
美濃国(岐阜県南部)の戦国大名斎藤氏の初代当主。

かつて、斎藤道三は北条早雲らと並ぶ下克上大名の典型であり、僧侶から油商人を経てついに戦国大名にまで成り上がった人物だとされてきた。
しかし、『岐阜県史』編纂の過程で発見された古文書「六角承禎条書写」によって、美濃の国盗りは道三一代のものではなく、その父の長井新左衛門尉との父子二代にわたるものとする理解が有力となっている。

父は長井新左衛門尉(豊後守)。
道三の名として、法蓮房・松波庄五郎(庄九郎)・西村正利(勘九郎)・長井規秀(新九郎)・長井秀龍(新九郎)・斎藤利政(新九郎)・道三などが伝わるが、良質な史料に現れているのは、藤原(長井)規秀・斎藤利政・道三などのみである。

子に斎藤義龍、斎藤利尭(玄蕃助)、斎藤孫四郎(龍元、龍重)、斎藤喜平治(龍之、龍定)、斎藤利治(利治)。
また、長井道利は弟とも、道三が若い頃の子であるともされる。
娘に姉小路頼綱正室、濃姫(織田信長正室)など。

道三は美濃の戦国領主として天文 (元号)23年(1554年)まで君臨した後、義龍へ家督を譲ったが、ほどなくして義龍と義絶し、弘治 (日本)2年(1556年)4月に長良川河畔で義龍軍に敗れ、討ち死にした。

史料に見る道三の来歴

「美濃の蝮」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は、1960年代に始まった『岐阜県史』編纂の過程で大きく転換した。
編纂において「春日倬一郎氏所蔵文書」(後に「春日力氏所蔵文書」)の中から永禄3年(1560年)7月付けの「六角承禎書写」が発見された。
この文書は近江守護六角義賢(承禎)が家臣である平井氏・蒲生氏らに宛てたもので、前欠であるが次の内容を持つ。

斎藤治部(義龍)祖父の新左衛門尉は、京都妙覚寺の僧侶であった。

新左衛門尉は西村と名乗り、美濃へ来て長井弥二郎に仕えた。

新左衛門尉は次第に頭角を現し、長井の名字を称するようになった。

義龍父の左近大夫(道三)の代になると、惣領を討ち殺し、諸職を奪い取って、斎藤の名字を名乗った。

道三と義龍は義絶し、義龍は父の首を取った。

同文書の発見により、従来、道三一代のものと見られていた「国盗り物語」は、新左衛門尉と道三の二代にわたるものである可能性が非常に高くなった。
父の新左衛門尉と見られる名が古文書からも検出されており、大永6年(1526年)6月付け「東大寺定使下向注文」(『筒井寛聖氏所蔵文書』所収)および大永8年2月19日付「幕府奉行人奉書案」(『秋田藩採集古文書』所収)に「長井新左衛門尉」の名が見えている。
一方、道三の史料上の初出は天文2年(1533年)6月付け文書に見える「藤原規秀」であり、同年11月26日付の長井景弘・長井規秀連署状にもその名が見える。

前半生

以下、かつて知られていた道三像を中心に叙述していく。

明応3年(1494年)に山城国乙訓郡西岡で生まれたとされてきたが、生年については永正元年(1504年)とする説があり、生誕地についても諸説ある。
『美濃国諸旧記』によると先祖代々北面の武士をつとめ、父は松波左近将監基宗といい、事情によって牢人となり西岡に住んでいたという。
道三は幼名を峰丸といい、11歳の春に京都妙覚寺で得度を受け、法蓮房の名で僧侶となった。

その後、法弟であり学友の日護房(南陽房)が美濃国厚見郡今泉の常在寺 (岐阜市)へ住職として赴くと、法蓮房もそれを契機に還俗して庄五郎(庄九郎とも)と名乗った。
油問屋の奈良屋又兵衛の娘をめとった庄五郎は、油商人となり山崎屋を称した。
庄五郎は油売り行商を重ねていたが、あるとき美濃常在寺の日護房改め日運と再会し、日運の縁故を頼った庄五郎は、美濃守護土岐氏小守護代の長井長弘家臣となることに成功した。
庄五郎は、長井氏斎藤長井氏家臣西村氏の家名をついで西村勘九郎正利を称した。

勘九郎はその武芸と才覚で次第に頭角をあらわし、土岐守護の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。
頼芸が兄土岐政頼との家督相続に敗れると、勘九郎は密かに策を講じ、大永7年8月、政頼を革手城に急襲して越前へ追いやり、頼芸の守護補任に大きく貢献した。
頼芸の信任篤い勘九郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘の除去を画策し、享禄3年(1530年)正月ないし天文2年(1533年)に長井長弘を不行跡のかどで殺害し、長井新九郎規秀を名乗った。

天文7年(1538年)に美濃守護代の斎藤利良が病死すると、その名跡を継いで斎藤新九郎利政と名乗った。
天文8年(1539年)には居城稲葉山城の大改築を行なっている。

上記の所伝には、父新左衛門尉の経歴も入り混じっている可能性が高い。
大永年間の文書に見える「長井新左衛門尉」が道三の父と同一人物であれば、既に父の代に長井氏として活動していたことになる。
さらに、天文2年の文書に藤原(長井)規秀の名が見え始めることから、道三が父から家督を相続したのはこの頃と推定されている。
小和田哲男「斎藤氏」項『戦国大名370家出自事典』新人物往来社、1996
同年11月の文書は、長井景弘との連署であり、道三が長井長弘殺害の際に長井氏の家名を乗っ取り、長弘の子孫に相続を許さなかったとする所伝を否定するものである。
また、長井長弘の署名を持つ禁制文書が享禄3年3月付けで発給されており、少なくとも享禄3年正月の長弘殺害は誤伝であることがわかっている。

美濃国盗り

天文10年(1541年)、利政による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺が契機となって、頼芸と利政との対立抗争が開始した。
一時は利政が窮地に立たされたりもしたが、天文11年(1542年)に利政は頼芸の居城大桑城を攻め、頼芸とその子の次郎を尾張国へ追放して、事実上の美濃国主となったとされている。
ただし、近年では尾張国に追放されたのは次郎であって、頼芸はこの段階では美濃に留まって傀儡の守護としてその地位を保っていたとする異説もある。

しかし織田信秀の後援を得た頼芸は、先に追放され朝倉孝景 (10代当主)の庇護を受けていた政頼と連携を結ぶと、両者は、美濃復帰を大義名分に掲げて朝倉氏と織田氏の援助を背景として、美濃へ侵攻した。
その結果、頼芸は揖斐北方城に入り、政頼は革手城に復帰した。
天文16年(1547年)9月には織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けたが、利政は籠城戦で織田軍を壊滅寸前にまで追い込んだ(加納口の戦い)。
一方、政頼も同年11月に病死した。
この情勢下において、利政は織田信秀と和睦し、天文17年(1548年)に娘の帰蝶を信秀の嫡子織田信長に嫁がせた。
帰蝶を信長に嫁がせた後の聖徳寺(現在の愛知県一宮市(旧尾西市)冨田)で会見した際、「うつけ者」と評されていた信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ正装で訪れたことに大変驚き、斎藤利政は信長を見込むと同時に、「我が子たちはあのうつけ(信長)の馬をつなぐようになる」と述べたと信長公記にある。

この和睦により、織田家の後援を受けて利政に反逆していた相羽城主長屋景興や揖斐城主揖斐光親らを滅ぼし、さらに揖斐北方城にとどまっていた土岐頼芸を天文21年(1552年)に再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定した。
美濃平定後、稲葉山城の七曲百曲口に「主を斬り、婿を殺すは身の(美濃)おはり(尾張)。
昔は長田、今は山城」という落書が記されたと言われる。
これは源平合戦の頃、尾張の長田忠致が旧主の源義朝を謀殺したことと、道三の行状が匹敵するということを謡っている。

晩年・最期

天文23年(1554年)、利政は家督を子の斎藤義龍へ譲り、自らは常在寺で剃髪入道を遂げて道三と号し、鷺山城に隠居した。
しかし道三は義龍よりも、その弟である龍重や龍定を偏愛し、ついに義龍の廃嫡を考え始めたとされる。
道三と義龍の不和は顕在化し、弘治元年(1555年)に義龍は弟たちを殺害し、道三に対して挙兵する。
道三と義龍との不和は、義龍が道三の実子ではなく土岐頼芸の子であったからだとする説がある。
義龍は大永7年(1527年)の出生で、母の深芳野が土岐頼芸から道三に下げ渡されてから1年以内の出生のためである。

国盗りの経緯から道三に味方しようとする旧土岐家家臣団はほとんどおらず、翌弘治2年(1556年)4月、1万7千の兵を率いる義龍に対し、7千の兵の道三が長良川河畔で戦い(長良川の戦い)、娘婿の信長が援軍を派兵したものの間に合わずに衆寡敵せず、戦死した。
享年63。
土岐頼芸は無能だったが、土岐家自体を慕う旧臣は多く、道三は美濃平定後も常に不穏分子に悩まされ、国内統制に苦慮している。
そのため、微罪の者を牛裂き、釜茹での刑に処するなどの強権政治を行なっている。
勝俣鎮夫は道三から義竜への家督譲渡の背景には、実はこうした残酷な道三の姿勢に不満を抱いた重臣達によって義竜を擁した政変が引き起こされて、道三はそれによって当主の座を追われたにすぎないとする説を唱えている。
戦死する直前、信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を残したと信長公記にある。
道三は義龍を「無能」と評したが、長良川の戦いにおける義龍の采配を見て、その評価を改め、後悔したという。
道三の首は、義龍側についた旧臣の手で道三塚に手厚く葬られた。
なお、首を討たれた際、鼻も削がれたという。

道三の墓所は、岐阜県岐阜市の常在寺 (岐阜市)に営まれているほか、同市の道三塚も道三墓所と伝えられている。
常在寺には道三の肖像や「斎藤山城」印などが所蔵されている。
後に江戸時代には、旗本井上家や松波家などが道三子孫として伝えられていた。

現代に至ると、岐阜のまちづくりの基礎を成した道三の遺徳を偲び、昭和47年(1972年)から岐阜市にて毎年4月上旬に道三まつりが開催されている。

小説

坂口安吾 『梟雄』(初出「文藝春秋」1953、のち『坂口安吾全集14』筑摩書房、1999に所収)

中山義秀 『戦国史記 - 斎藤道三』(中央公論社、1957)

司馬遼太郎 『国盗り物語』(新潮文庫、初版1971)

岩井三四二『簒奪者』(学習研究社、1999年)

岩井三四二『斎藤道三 兵は詭道なり』-(学研M文庫、2001)

宮本昌孝 『ふたり道三』-(新潮社、2002-2003)

漫画

本宮ひろ志 『猛き黄金の国 道三』-(集英社文庫、2004)

TVドラマ

NHK大河ドラマ『国盗り物語 (NHK大河ドラマ)』(日本放送協会、1973 平幹二朗)

新春ワイド時代劇『国盗り物語新春ワイド時代劇版』(テレビ東京、2005 北大路欣也)

親子二代説が登場するまでは「油屋から身を立て大名にまでのしあがった戦国大名」という道三像が定着していたことから、各種の民間説話・伝承や、二代説登場後のものも含む多くの創作作品においては、一代説を前提とした「斎藤道三」というキャラクターが語られることが圧倒的に多い。

江戸時代から道三は極悪人として語られてきたが、そうした従来の道三像を止揚し、時代の先駆者としての道三像を描いたのは坂口安吾『梟雄』(1953年)だった。
時代の先駆者としての創作イメージを決定的に定着させたのは司馬遼太郎『国盗り物語』(1971年)であり、同名のNHK大河ドラマ(1973年)だった。
親子二代説にもとづくものも含め、その後も多くの創作作品がつくられたが、強い個性を持ち、時代の先駆者・変革者としてのイメージで描かれる傾向は続いている。

道三が登場するその他のテレビドラマ

『天と地と (NHK大河ドラマ)』(1969年 NHK大河ドラマ 演:中村翫右衛門 (3代目))

『織田信長 (TBSドラマ)』(1989年 TBSドラマ 演:松方弘樹)

『信長 KING OF ZIPANGU』(1992年 NHK大河ドラマ 演:芦田伸介)

『織田信長 (テレビドラマ 1994年)』(1994年 テレビ東京ドラマ 演:津川雅彦)

『豊臣秀吉 天下を獲る!』(1995年 テレビ東京ドラマ 演:渡辺哲)

『秀吉 (NHK大河ドラマ)』(1996年 NHK大河ドラマ 演:金田龍之介)

参考文献

福田栄次郎 「斎藤道三」項(『国史大辞典 6』 吉川弘文館、1985。
ISBN 4642005064)

小和田哲男 「斎藤氏」項(『戦国大名370家出自事典』 新人物往来社、1996。
ISBN 4404023766)

[English Translation]