斯波義寛 (SHIBA Yoshihiro)
斯波 義寛(しば よしとお/よしひろ、康正3年(1457年) - 永正11年4月17日 (旧暦)(1514年5月21日?)は室町時代後期の守護大名。
斯波義敏の嫡男で、母は家女房。
幼名は松王丸。
初名義良(よしすけ/よしなが)。
名は「よしひろ」とも読む。
弟妹に斯波寛元、斯波義雄、斯波義孝室ら。
正室は一色義直の娘。
子は斯波義達、足利義澄室、村上顕国室ら。
官途は従四位下、治部大輔、左兵衛佐。
越前国、尾張国、遠江国守護。
幼年での家督相続と剥奪
長禄3年(1459年)8月、父義敏が将軍足利義政の怒りに触れ、3ヶ国の守護職を奪われ大内氏の許へ隠退すると、越前守護代甲斐氏らにより擁立され、僅か3歳で斯波氏家督と3ヶ国守護職を継ぐ。
しかし、寛正2年(1461年)9月、朝倉孝景 (7代当主)らの工作により義政から廃嫡を命ぜられ、相国寺の季瓊真蘂に稚児として預けられる。
応仁の乱
文正元年(1466年)7月、父義敏の復権に伴い還俗、応仁の乱では東軍に属し、祖父斯波持種、父義敏とともに越前へ下向、同国の西軍斯波義廉方を攻めている。
文明 (日本)4年(1472年)12月に元服、義良と名乗る。
文明7年(1475年)、新将軍足利義尚に謁見、同年、遠江守護代となった甲斐氏とともに遠江に下向し、同国侵攻を続けていた今川義忠の軍勢と対陣する。
翌年の義忠敗死後は朝倉孝景が平定したばかりの越前に目を向け、文明11年(1479年)閏9月4日、叔父斯波義孝、甲斐氏、二宮氏らを引き連れて京都から越前に向けて進発、文明13年(1481年)まで越前の諸所で合戦を繰り広げる。
しかし、同年9月15日の合戦で朝倉方に完敗し、加賀国に没落、越前復旧は失敗する。
文明15年(1483年)3月、尾張国清洲城に入城、本拠地と定める。
文明17年(1485年)、名を義寛と改名、同年出家した父義敏の跡を継いで、尾張・遠江守護となる。
越前回復への執念
長享元年(1487年)の足利義尚による近江国六角高頼攻めに8000の兵を率いて参陣、幕府に忠誠の態度を示して越前回復を訴えるが、要求は退けられる。
延徳3年(1491年)の足利義稙による六角高頼攻めにも大軍を率いて参陣、重ねて越前回復を訴える。
この時は義材の越前進発が噂になるなど、義寛に有利に事は進んだが、結局幕府は朝倉氏の軍事力を怖れて、越前回復はならなかった。
明応2年(1493年)の義材の河内国畠山義豊攻めにも義寛は従軍するが、管領細川政元によるクーデター(明応の政変)に遭い、義材との親密さが災いして幕府内で孤立することとなる。
翌年からは細川政元と提携している今川氏親が遠江に侵攻を開始、義寛はこれに対処しようとするが、明応4年(1494年)に隣国美濃国で舟田合戦が勃発、尾張国内がこれに巻き込まれ、遠江出陣は不可能な状態となる。
尾張国内の政情が安定化した明応9年(1500年)頃から義寛は戦略を変更、義材派から新将軍足利義澄派に切り替え、細川政元の支持を得、信濃国小笠原氏、関東管領上杉顕定にも協力を呼びかけ、今川氏を東西から挟撃しようと目論む。
文亀元年(1501年)、義寛は弟寛元、義雄を遠江に派遣し攻勢をかける。
しかし、まもなく史料上からその名を消し、その後の動向は不明。
一説によると永正11年(1514年)に死去したとされる。
官職位階履歴
1459年(長禄3年)8月、斯波氏家督継承及び越前・尾張・遠江守護補任。
1461年(寛正2年)9月、家督及び守護職剥奪。
1472年(文明 (日本)4年)12月、元服。
従五位下治部大輔。
1485年(文明 (日本)17年)4月、従四位下左兵衛佐。
斯波氏家督継承。
偏諱を受けた人物
織田寛定
織田寛広
織田寛村
織田良信