新見錦 (NIIMI Nishiki)
新見 錦(にいみ にしき、天保7年(1836年) - 文久3年9月13日 (旧暦)(1863年10月25日)?)。
水戸藩出身。
新選組局長のち副長に降格。
号は錦山(きんざん)。
新選組の羽織を作るために大坂の平野屋五兵衛から金子を借りた時に、隊長として近藤、芹沢と同格で「親見錦」と署名した。
署名から新見錦の読みがしんみ にしきである可能性もある。
生涯
岡田助右衛門に剣を学び神道無念流剣術免許皆伝を授かる。
文久3年(1863年)2月、清河八郎が建策により上洛する征夷大将軍徳川家茂の警護のために組織された浪士組に加盟。
三番組小頭になった。
後に新選組を結成する水戸の芹沢鴨や江戸・試衛館(天然理心流)の近藤勇も加盟している。
新見の前歴は詳らかでないが、幹部の小頭に任じられていたことから名が知られた存在ではあったと考えられる。
同じ水戸出身で六番組小頭の芹沢鴨のかねてからの同志とされるが、芹沢との具体的な関係は不明である。
また、剣術の師である岡田助右衛門も五番世話役として参加している。
新見の組下には井上源三郎、沖田林太郎(沖田総司の義兄)など5人の多摩系の天然理心流門人が配属された(井上以外は新選組には不参加)。
8日に江戸を出立して23日に入京。
粕谷新五郎(水戸出身)とともに南部亀二郎邸に宿泊。
芹沢は近藤とともに八木源之丞邸に宿泊しており、八木家の子息だった八木為三郎の回顧によれば、新見と粕谷は芹沢のいる八木家に入り浸っていたという。
27日に清河が攘夷の真意を明かして江戸帰還を宣言すると、芹沢、近藤とともに京都残留を表明して離脱。
離脱組は芹沢、新見ら5人の水戸系浪士と近藤、土方歳三、山南敬助、沖田総司ら8人の試衛館門人で、これに殿内義雄、根岸友山、粕谷新五郎らが加わるがすぐに内部抗争が起きて殿内、根岸、粕谷らは謀殺・脱退した。
必然的には浪士たちは芹沢、新見ら水戸派と近藤、土方ら試衛館派に大別された。
浪士たちは京都守護職の会津藩主松平容保に嘆願書を提出して、会津藩御預かりとなり壬生浪士組を名乗る。
新見は結成当初の編成で芹沢、近藤と並んで局長となった。
4月に大阪市の商人から100両借りた(押し借り)したときの添書きでは新見、芹沢、近藤の名前が並んでいる。
隊士が増えて6月に編成変えが行われた時には、新見は局長から副長に降格されている。
新見は芹沢と行動を共にする腹心と言われるが、芹沢が引き起こした大坂力士乱闘事件や大和屋焼き討ち事件には参加しておらず、同じ水戸出身の最高幹部だが芹沢とどの程度の親密な関係だったか、また壬生浪士組幹部としての行動の実態はよく分らない。
芹沢や近藤のことをよく覚えていた八木為三郎も新見についてはまるきり覚えていない、いつの間にかいなくなったと述べている。
そのため影の薄い男だったと言われることもあるが、隊務を怠っていたという記録があり、ほとんど屯所の八木家にいなくて為三郎と顔を合わせることもなかったのだろう。
八月十八日の政変では芹沢、近藤らと出動して殿を務めている。
この出動を機に壬生浪士組は新選組(新撰組)と改称した。
新選組幹部の永倉新八が書き残した『浪士文久報国記事』によると新見は乱暴が甚だしく、法令を犯して芹沢、近藤の説得にも耳を貸さなかったという。
子母澤寛の『新選組始末記』によっても新見は遊蕩に耽って隊務を怠り、隊費と称して民家から強請り(ねだり)を繰り返していたという。
9月13日に新見は切腹させられた。
『新選組始末記』によると悪行の数々を握られて切腹せねば法度に照らして斬首すると詰め寄られ、遊蕩先の祇園新地の料亭山緒でついに切腹させられたという。
『浪士文久報国記事』によれば一同相談のうえ切腹と決まったが、またも三条木屋町の旅宿で水戸浪人吉成常郎に乱暴を働いたため梅津某の介錯で切腹させられたことになっており、真相はよく分からない。
日付も『浪士文久報国記事』では8月14,15日となっており、判然としない。
明治になって倒幕派尊王攘夷志士を祀るためつくられた霊山護国神社に倒幕派の敵だったはずの新選組幹部である新見が祀られていることから、切腹は単純な乱暴狼藉ではなく水戸や長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派との親密な関係があったからではないかという説もある。
新見の死の僅か3日後の9月16日に芹沢と水戸派の平山五郎が試衛館派に襲撃・暗殺されており、新選組の水戸派は壊滅した。
田中伊織
新選組隊士・田中伊織と新見錦を同一人物とする説もあるが、定かではない。
近年では水戸浪士の新家粂太郎が新見錦であるという説も出ている。
田中伊織の墓は壬生寺にある。