施薬院全宗 (YAKUIN Zenso)
施薬院 全宗(やくいん ぜんそう、大永6年(1526年) - 慶長4年(1599年))は戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての医者。
豊臣秀吉の側近。
姓は「せやくいん」とも。
丹波氏の出身。
号は徳運軒。
大永6年(1526年)、平安時代の名医丹波康頼の二十世の末裔として生まれる。
祖父・宗清、父・宗忠ともに権大僧都法印となっている。
元々比叡山菜樹院の住持であったが、織田信長による比叡山焼き討ちの後、還俗して曲直瀬道三に入門し、漢方医学を極める。
豊臣秀吉の知遇を得て侍医となり、秀吉が天下人になるに伴い、天正年間に勅命を受けて施薬院使に任命、従五位下に叙され昇殿を許される。
同時に姓を「施薬院」とした。
施薬院は奈良時代光明皇后による創建以来、800年の時を経て完全に形骸化していたため、復興に尽くし、身分の上下を問わず病の人々へ薬を授けた。
また医師でありながら秀吉側近としても活躍し、伊達政宗・佐竹義重 (十八代当主)との交渉役などを務めている。
天正15年発布の定(切支丹禁令)は全宗の筆による。
荒廃した比叡山の再興にも尽力した。
のち正四位に陞爵。
慶長4年没。
享年74(一説に69ともいう)。
妻は永原実賢の娘。
一男一女の子がいたが、共に全宗より先に没した。
そのため近江の三雲宗伯(秀隆)を養子とした。
子孫は代々施薬院使を務めた。