日野有光 (HINO Arimitsu)
日野 有光(ひの ありみつ、元中4年/嘉慶 (日本)元年(1387年)- 嘉吉3年9月27日 (旧暦)(1443年10月20日))は、室町時代前期の公卿。
父は権大納言の日野資教。
子に日野資親。
号を祐光。
足利義満の縁戚でありその寵愛を受け、後に娘は称光天皇の妃となった。
1417年(応永24年)に院執権となり、1421年(応永25年)権大納言となるが、1425年(応永32年)に院執権と権大納言を両方辞し、出家して祐光と号す。
だが、称光天皇が男子を残さずに没し、皇統が伏見宮系統に移ると、政治的に不遇となった。
1443年(嘉吉3年)の嘉吉の乱の後、京都の動揺に乗じ、その後の尊秀王による京都侵入事件(禁闕の変)が起こると神璽と天叢雲剣の神器を奪い比叡山に籠った。
しかし畠山持国らに攻められ、子の日野資親と共に斬罪にされた。
官職位階履歴
1411年(応永18年)参議。
1414年(応永21年)権中納言。
1417年(応永24年)院執権。
1421年(応永28年)権大納言。
1425年(応永32年)従一位。
権大納言と院執権を辞す。