書根麻呂 (FUMI no Nemaro)
書根麻呂(ふみのねまろ、生年不詳 - 慶雲4年(707年)9月21日)は、日本の飛鳥時代の人物である。
氏は文とも、名は尼麻呂、祢麻呂(禰麻呂)とも書く。
旧仮名遣いでの読みは「ふみのねまろ」で同じ。
姓は首、後に連、さらに後に忌寸。
672年の壬申の乱で天武天皇の側で近江方面の将として戦った。
後に左衛士府督。
江戸時代に墓が発掘され、後に埋葬品が国宝に指定された。
壬申の乱での活躍
書氏(文氏)は渡来系の氏族である。
壬申の乱が勃発したとき、根麻呂は大海人皇子の舎人であった。
6月24日に皇子が挙兵を決断して吉野宮を去り、東に向かったとき、付き従う者はその妻子と舎人ら20数名、女官10数名しかいなかった。
書根麻呂はこの一行の中にいた。
無事に美濃国にたどりつき、兵力を集めた大海人皇子は、7月2日に軍勢を二手にわけて、近江国に直行する部隊と倭(大和国)に向かう部隊に進発を命じた。
書根麻呂は村国男依、和珥部君手、胆香瓦安倍とともに近江に向かう将となった。
彼等は7月7日に息長の横河で近江を破ったのを皮切りに、9日には鳥籠山で、13日に安河浜で勝利を重ねて前進した。
17日には敵の本拠である近江宮のそばで栗太の軍を破り、22日に瀬田に到達した。
この日の戦いで弘文天皇が指揮した大軍は敗れた。
翌日大友皇子は自殺し、内乱は終結した。
功臣のその後
『日本書紀』には、天武天皇元年(672年)12月4日に勲功ある人を選んで冠位を増し、小山位以上をあたえたとする記事がある。
そのため根麻呂もこれと同じかそれ以上の位を受けたと思われる。
また、文尼麻呂が過去の論功で100戸の封を与えられたことが、『続日本紀』大宝 (日本)元年(701年)7月21日条に見える。
天武天皇12年(683年)9月23日に、文首など38氏が連の姓を与えられた。
天武天皇14年(685年)6月20日に、文連など11氏が忌寸の姓を与えられた。
後に発掘された墓誌から、書根麻呂が最終的に左衛士府督となったことがわかる。
衛士府の督(長官)は武官の要職である。
慶雲4年(707年)に文祢麻呂は死んだ。
従四位下であった。
元明天皇は、使者を遣わして詔を述べさせ、壬申の年の功により正四位上と絁(あしぎぬ、絹布の一種)・布を贈った。
『続日本紀』のこの記事では10月24日に卒したとあるが、後述する墓誌では9月21日である。
文祢麻呂の墓
江戸時代の1831年(天保2年)9月に、文祢麻呂の墓碑が発掘された。
場所は現在の奈良県宇陀市榛原区八滝である(北緯34度30分3.5秒東経135度58分35.3秒)。
火葬した骨は、ガラスの壺の中におさめられ、それが布でくるまれてさらに金銅製の壺におさめられていた。
銅の箱に入った銅製の墓誌板には、壬申年将軍左衛士府督正四位上文祢麻 呂忌寸慶雲四年歳次丁未九月廿一日卒 とあった。
その後墓は埋め戻され、出土品は地元の龍泉寺に納められた。
1952年(昭和27年)国宝に指定され、現在は東京国立博物館が所蔵している。
1982年(昭和57年)に再調査が行われ、墓誌出土場所のすぐそばで墓の跡が見つかり、『文祢麻呂墓』として1984年(昭和59年)4月5日に国の史跡に指定された。