有馬則頼 (ARIMA Noriyori)
有馬 則頼(ありま のりより、1533年3月18日(天文 (元号)2年2月23日 (旧暦)) - 1602年9月13日(慶長7年7月28日 (旧暦)))は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての武将。
江戸時代初期の大名。
摂津国三田藩主。
久留米藩有馬家初代。
有馬重則の長男。
母は細川澄元の娘。
正室は別所忠治の娘。
子は有馬則氏(長男)、有馬豊氏(次男)、有馬則次(三男)、有馬豊長(四男)、娘(有馬重頼室)、娘(渡瀬繁詮室)、娘(石野氏満室)、娘(中山某室)。
刑部卿法印。
播磨国赤松氏の庶流。
豊臣秀吉が織田信長の命を受けて中国征伐を開始すると、秀吉の家臣として仕え、毛利氏攻めに従軍した。
その後も九州征伐、朝鮮出兵などに参加し、いずれも功を挙げたことにより、摂津三田2万石を与えられた。
秀吉の伏見城築城にも参加して功を挙げ、晩年は秀吉の御伽衆を務めている。
秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して参戦した。
慶長7年(1602年)、70歳で死去。
遺領は丹波国福知山藩主となっていた次男・豊氏が継承した。