朝倉景豊 (ASAKURA Kagetoyo)

朝倉 景豊(あさくら かげとよ、生年不詳 - 文亀3年4月3日 (旧暦)(1503年4月28日))は室町時代末の武将である。
父は朝倉景冬。
妻は朝倉景総の娘。
孫四郎と称す。

父景冬の唯一の男児で、明応4年(1495年)9月の父の没後、敦賀郡司職を継ぐ。
景豊の姉妹は朝倉宗滴、堀江景実、鳥羽景富、青蓮華近江守ら朝倉一族に嫁いでいた。
また、義父である朝倉景総は、当時、越前国を離れ京で管領細川政元に仕えていた。
景総は一大閨閥を持つ景豊に対し、義兄弟の力を借りて、朝倉宗家に謀叛を起こすよう唆し、景豊もこの企てに同意した。

景総の軍勢は近江国から越前へ向かい、越前国内では景豊とその義兄弟の軍勢が蜂起する手筈であったが、義兄弟達は誰もこの企てに乗らなかった。
そのうちの一人朝倉宗滴は文亀3年(1503年)3月晦日、直ちに謀叛の企てを当主朝倉貞景 (9代当主)に注進した。
貞景は数千騎を率いて敦賀に向かい、4月3日、景豊の居城敦賀城を完全に包囲した。
景総の軍勢到着も間に合わず、景豊は包囲軍と合戦の後、自害して果てた。

なお、男児が二人(九郎兵衛、春蘭軒)いたが助命されたようである。

[English Translation]