木下利玄 (KINOSHITA Rigen)
木下 利玄(きのした りげん、1886年(明治19年)1月1日 - 1925年(大正14年)2月15日)は日本の歌人。
本名は利玄(としはる)。
略年譜
明治19年(1886年)岡山県賀陽郡足守村(現・岡山市北区 (岡山市)足守)にて足守藩最後の藩・木下利恭の弟・利永の二男として生まれる。
明治24年(1891年)5歳の時、利恭の死去により宗家・木下子爵家の養嗣子となり家督を継ぐため上京。
明治25年(1892年)学習院初等科に入学。
武者小路実篤と同級になる。
明治39年(1906年)東京大学文科に入学。
東大在学中は佐佐木信綱に師事し短歌を学び、竹柏会門下の逸材と呼ばれる。
明治43年(1910年)には実篤や志賀直哉らと共に文芸雑誌「白樺 (雑誌)」を創刊し、散文や短歌を発表。
白樺派の代表的歌人の一人となる。
明治44年(1911年)横尾照子と結婚。
東京帝国大学国文科を卒業。
大正元年(1912年)目白中学の国文講師に就任。
同年長男が誕生するがすぐに死去。
その後2男1女をもうけるが、末子(三男・利福)以外は夭逝している。
大正5年(1916年)目白中学を退職し、歌に専念する。
大正11年(1922年)結核にかかり病床の身となる
大正12年(1923年)反アララギ派の大合同誌「日光」に加わる。
大正14年(1925年)病がいよいよ重篤になり、2月15日死去。
享年40。
墓所は木下家菩提寺である足守・大光寺。
分骨が東京都台東区・谷中墓地に埋葬されている。
作風
歌風は初め官能的、感傷的であった。
その後、窪田空穂や島木赤彦らに影響を受け、口語や俗語を使用し平易で写実的なその短歌は利玄調と呼ばれるようになった。
以下は、中高校の教科書に採られたり、入試を始めとする各種試験に使われたりして、広く人口に膾炙したものである。
街をゆき子供の傍を通る時蜜柑の香せり冬がまた来る
牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ
曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径
歌集
銀(1914年)
紅玉(1919年)
一路(1924年)
立春(1924年)
李青集(1925年)
木下利玄全歌集(1926年)など