木村清久 (KIMURA Kiyohisa)
木村清久(きむらきよひさ、? - 慶長20年(1615年))は戦国時代 (日本)・安土桃山時代の武将。
豊臣秀吉の家臣、木村吉清の息子。
弥一右衛門。
秀望。
キリシタンで洗礼名ジョアン。
概略
豊臣秀吉政権にあっては奏者的地位にあったようだ。
天正14年(1586年)には石田三成、増田長盛と連名で上杉景勝に上洛を促す書状を、天正18年(1590年)の小田原攻めに際しては伊達政宗に参陣を催促する書状を送っている。
奥州仕置後、父とともに奥州入りし、葛西氏の重臣の居城であった名生城に入城し統治を行ったが、父の苛政のため領内では一揆が勃発。
事を大事と見た清久は対策を練るため父の居城寺池城へ赴くが、その間に葛西大崎一揆が勃発してしまう。
一揆は伊達政宗の煽動もあって大規模化し、木村氏は結局独力では一揆を鎮圧できず、戦後改易された。
後吉清の遺領豊後1万4千石を次いで豊臣大名となる。
このころ秀吉の偏諱を受け秀望と名乗ったか。
関ヶ原の戦いでは丹後田辺城(舞鶴城)攻撃隊に参加し、近江勢田橋を守ったが、守りきれず敗走。
戦後改易される。
1615年、大坂夏の陣で大坂城に入城し、討ち死にを遂げた。