木沢長政 (KIZAWA Nagamasa)
木沢 長政(きざわ ながまさ、明応2年(1493年)? - 天文 (元号)11年3月17日 (旧暦)(1542年4月2日))は、戦国時代 (日本)の人物。
河内国、山城国南部の守護代。
左京亮。
河内飯盛山城城主、大和国信貴山城城主。
父は木沢浮貶(左近?)か。
木沢左馬允は弟。
木沢右近、木沢又八郎は一族か。
生涯
木沢氏は畠山氏の被官として名が見える一族である。
畠山持国の時代には木沢蓮因なる人物がいたことが知られている。
長政の時代において、主家の畠山氏は総州家と尾州家に分かれて対立しており、当初は畠山義就を祖とする畠山総州家の畠山義堯に仕えていた。
だが、相克を続ける主家を見限るかのように、次第に独自の行動をするようになっていく。
細川氏へ取り入って自らの地位向上に努める中、政敵の排除には一向宗と法華宗の宗教対立まで利用する狡猾さを見せた。
やがては主家を牛耳るほどの勢力を一代で築き上げ、畿内にその名を轟かせた。
しかし、増長したため孤立し、最後は三好長慶に敗れ、戦死を遂げた。
権謀術数を駆使して
その当時、平島公方・足利義維を擁して細川氏の管領職争いを優位に進めつつあった細川晴元(晴元)へ接近。
しかし享禄4年(1531年)、六郎(晴元)の仇敵・細川高国による摂津国侵攻の際には、当初は勢い盛んな高国軍との対峙を危ぶんでか、一時的に姿を消す。
ところが、天王寺の戦い(大物崩れ)で高国を破って切腹に追い込んだ六郎(晴元)たち堺公方派の勝利が確定した頃になると再び姿を現し、高国方の要人である細川尹賢を捕縛し、切腹させている。
なお、主君・義堯も六郎(晴元)の姉妹が正室であった縁にも因るのか、堺公方の足利義維を支持する一員であった。
だが、高国という共通の外敵を滅ぼすと堺公方派の連合には、結束にヒビが入りはじめた。
その原因は、六郎(晴元)にあった。
義維(堺公方)派の中心人物でありながら、対立してきた将軍足利義晴との和睦を図ろうとする六郎(晴元)の方針に、晴元の有力家臣である三好元長が諫言。
義堯も諌止側に回るなど、両者は次第に対立するようになっていた。
そんな中、主家・畠山氏を飛び越えて、六郎(晴元)への接近を強めんとする長政の姿勢は、これを危険視する主君・義堯と三好元長の結束を招いてしまう。
誅滅される危険に晒された長政は、三好氏の中で元長を敵視する三好政長の存在に着目。
政長と共謀して六郎(晴元)へ元長を讒言することにより、元長と六郎(晴元)を離間させること成功した。
義堯と元長からは2度に亘って居城の飯盛山城を攻撃され、劣勢であったところを、享禄5年6月(1532年)には六郎(晴元)の要請により出陣した一向一揆の援軍を得て、これを撃退。
窮地を乗り切った。
この時の一向一揆の進撃は凄まじく、主君・義堯を自刃させたばかりか、畿内における三好氏の根拠地・和泉国顕本寺 (堺市)まで襲って元長も自害に追い込み、堺公方を消滅させている。
一向宗と法華宗の対立を利用して政敵の排除に成功したまでは良かったが、長政の思惑を通り越して、そのまま今度は大和国へ転進する一向一揆軍。
大和では興福寺などの他宗派との衝突や、暴動を起こすなど新たな騒乱を巻き起こしてしまう(享禄・天文の乱天文の錯乱)。
その為、将軍義晴の下で管領となった晴元の命令を受けて、長政はその対応と鎮圧に追われることになる。
そこで今度は一向一揆と対立する法華一揆と結び、その力で一向一揆を追討した。
一向一揆の勢力を弱めることに成功すると、今度は法華一揆が邪魔になったため、天文5年(1536年)にこれを打倒した(天文法華の乱)。
その後、本願寺の証如や蓮淳と書簡や進物のやり取りを盛んに行い、一向宗との関係修復に努めた。
こうして長政は畿内の実力者の一人として認識されるようになる。
両畠山家の掌握
河内畠山氏においては、既に総州家は没落していたが、一方の尾州家(畠山政長を祖とする)の勢力は健在であった。
天文_(元号)3年(1534年)当時、尾州家の主は畠山稙長であったが、長政は尾州家重臣の遊佐長教らと結託して稙長を紀伊国に追放した。
当初は稙長の弟・畠山長経(左京大夫)を傀儡として擁立したが、晴元の干渉もあって長経は廃され、今度はそのまた弟の畠山政国(播磨守?)と総州家より畠山在氏を擁立し、尾州家と総州家の共同統治という形式を採ることにより、長政は長教と共に畠山氏の実権を握ることになる。
その後の長政の野心は、河内1国を支配下に治めただけにはとどまらず、その軍事行動は畿内の各国に及んだ。
特に、かつての総州家の版図である大和国への執着は根強く、国人衆にとって大きな脅威となった。
この時河内と大和の双方に通じる拠点として信貴山城や二上山城 (大和国)を築城した。
転機
畿内では新たに元長の遺児である三好長慶や摂津の有力国人である池田信正(久宗)が台頭するようになっていた。
長慶の帰参を取り成したのは長政で、これは法華宗と和睦する際に、法華宗とつながりの深い三好氏の助力を得る必要があったためである。
年少ながら晴元政権でしだいに頭角を現していた長慶は、当初は父の仇の一人である晴元と敵対するも和睦。
摂津越水城を与えられると畿内に勢力を着実に広げ、長政に押領された父・元長の旧領奪回を狙っていた。
こうした外部での情勢変化以上に問題となったのが、畠山家中における主導権を巡っての遊佐長教との対立である。
旧主の畠山稙長と和睦してまで長政の排斥を目論む遊佐長教に対抗すべく、蓮淳の仲介で管領・細川晴元との関係強化を図ったが、これに失敗する。
事情は不明だが先に廃した畠山長経も殺害しており、長政の畠山家中での増長の兆しがこの頃には見えるようになっていた。
凋落へ
天文10年(1541年)には、旧高国党とみなされた山下城の塩川政年の処遇を巡って晴元や長慶と対立。
そこで長政は、摂津の有力国人である伊丹親興や三宅国村を味方につけ、これに抵抗した。
一庫城を包囲していた長慶と信正を敗走させ、信正の原田城を攻撃、さらに京へ進軍して、将軍義晴を擁立しようと画策するが、肝心の義晴には近江坂本へ逃れられてしまい、長政は幕府に背いた逆賊となってしまう。
しかも、早々に晴元と和睦した政年や国村の離反によって、孤立感を深めた。
翌11年(1542年)には、河内高屋城で政変が勃発。
木沢派の家臣が粛清され、さらに畠山政国が追放された。
その後は、遊佐長教との関係を修復した畠山稙長が当主に復帰した。
河内畠山尾州家における支持基盤を失い、ますます窮地に立たされた長政に従うのは、柳生家厳など、かつての総州家の被官を中心とする大和国人衆の一部のみであった。
高屋城の再奪取を図るも失敗し、幕府の追討軍と河内太平寺の戦いで一戦するも、細川晴元、三好長慶、遊佐長教の連合軍に敗れ、討ち死にした。
乱世における表立った活動期間は10年余ながら、政争の嗅覚に優れた上に敵対者を陥れる奸知にも長け、混乱する畿内を生き抜いた。
しかも、その形振り構わぬ鬼謀によって、畿内の混乱に拍車を掛けたとも言える奸雄であった。
ただし、その処世術の源泉である鬼謀が振るわなくなると、脆かった。
死後
長政と共に一族の多くが戦死、二上山城や信貴山城などもまもなく落城し、長政の勢力は消滅したが、その残党は旧細川高国の残党と結びつき、その数ヶ月後には細川氏綱を盟主として挙兵し、細川氏綱細川氏綱の乱が勃発する。
また、長政の没後の大和においては筒井順昭が台頭したが、その勢力を抑えるために長慶が派遣した部将が松永久秀である。