村山槐多 (MURAYAMA Kaita)
村山 槐多(むらやま かいた、1896年9月15日 - 1919年2月20日)は、大正期の洋画家。
男性。
10代からシャルル・ボードレールやアルチュール・ランボーに読み耽り、詩作もよくした。
その早熟さ、デカダン的な生活、失恋による心の痛みなどにより、結核性肺炎を患っていた。
また、22歳の若さで夭折した点まで同時代の関根正二とよく比較されるが、2人の作風は全く異なっている。
画家自身のほとばしる情念や不安を反映した村山の人物像は、器用ではないが、一度見たら忘れられない強烈な印象を残すものである。
画家の山本鼎は従兄。
略歴
1896年― 小学校教師村山谷助、たまの長男として、神奈川県横浜市で生まれる
1897年― 愛知県額田郡岡崎町から高知県土佐郡小高坂村(現在の高知市)に移り住む
1900年― 京都市上京区寺町通り荒神口上ル宮垣町58番地に住む
1903年― 銅駝保育所(現京都市立銅駝幼稚園)卒業、京都市立春日小学校入学
1909年― 京都府師範学校付属小学校(現在の京都教育大学付属小学校)卒業、京都府立第一中学校(現在の京都府立洛北高等学校)に入学
1914年― 京都府立第一中学校を卒業し上京、日本美術院の研究生となる
1915年― 第2回日本美術院展覧会で「カンナと少女」が院賞受賞
1917年― 第4回日本美術院展覧会で「乞食と女」が院賞受賞
1918年― 第4回日本美術院試作展覧会に「樹木」「自画像」「九十九里の浜」「男の習作」他2点を出品し、奨励賞受賞
1919年2月1日― 第5回日本美術院試作展覧会に「松と榎」「雪の次の日」「松の郡」「自画像」「松と家」「大島風景」「某侯爵邸遠望」「代々木の一部」を出品し、美術院賞乙賞受賞
1919年2月20日― 流行性感冒(スペイン風邪)による結核性肺炎で急死、戒名は「清光院浄譽槐多居士」
1920年― 「槐多の歌へる」(アルス社)が出版される
1921年― 「槐多の歌へる其の後」と「槐多画集」(アルス社)が出版される
作品
絵画
若年で病没した画家としては比較的多くの作品を残している。
全体として、決して技巧的ではないものの、原色を多用した、けばけばしいとさえいえる筆致を特徴とする。
『庭園の少女』『バラと少女』『湖水と女』などの女性像や、『朱の風景』『信州風景』『松の群』などの風景をモチーフとして好んだ。
その他、托鉢に放尿する裸の僧侶を赤を主調として描いた『尿する裸僧』は、見る者に異様な情熱を感じさせる、もっとも村山槐多らしい作品として知られている。
とはいえ、実質的に画家として活動した期間が約5年足らずであるため絶対的な作品数は少ない。
その関係から、現在残されている作品にはかなりの高値が付いており、過去に『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)に村山の作品が登場した際には3,000万円の評価額が付けられたこともある(しかもこれは「オークションでのスタート金額」としての評価であり、番組では「実際には億単位になる可能性もある」とのコメントも残された)。
代表作
庭園の少女(1914年、福島県立美術館)
裸婦(1914-15年、久万美術館)
尿する裸僧(1915年、信濃デッサン館)
バラと少女(1917年、東京国立近代美術館)
湖水と女(1917年、ポーラ美術館)
自画像(1918年、大阪市立美術館)
松の群(1918年、中野美術館)
詩
詩集『槐多の歌へる』は村山槐多の死後、友人たちによって編集、出版された。
収録された作品は、絵と同様、技巧的というよりも若々しい情熱と率直さに満ちたものである。
草野心平の詩人としての成り立ちに大きな影響を与えているが、一般的には、その絵画と比べると一段低く評価されている。