東園基雅 (HIGASHIZONO Motomasa)
東園 基雅(ひがしぞの もとまさ、延宝3年1月5日 (旧暦)(1675年1月30日) - 享保13年6月11日 (旧暦)(1728年7月17日))は江戸時代中期頃の公卿。
主に113代東山天皇・114代中御門天皇時代の朝廷に仕え、正二位大納言までのぼった。
父は東園基量(正二位大納言)。
母は高倉永敦(正二位大納言)の姫。
はじめ基茂・基長と名乗った。
正室は藤谷為条の娘、継室は藤谷為茂の娘。
子に東園基豊、東園基楨、娘(松平基知室)、娘(六角基維室)がいる。
延宝7年(1679年)に叙爵。
元禄2年(1689年)に従四位下左近衛少将に進んだ際に基長と改名した。
その後左近衛中将・蔵人頭を経て、元禄13年(1700年)に参議となり、公卿に列する。
踏歌節会外弁、中納言などを経て、享保4年(1719年)には大納言に就任した。
享保8年(1723年)まで同職に在職している。
その間に正二位に昇っている。
享保11年(1726年)に基雅に改名した。
享保13年(1728年)に薨去した。
享年54。
「東園基長卿記」という日記を今日に残す。
元禄14年(1701年)に起こった元禄赤穂事件についても記しており、浅野長矩が切腹のうえ一家滅亡することについて基雅は「不便々々(ふびんふびん)」と述べている。
関白近衛基煕の日記「基煕公記」も吉良が刃傷されたことについて「珍事々々(ちんじちんじ)」とおもしろげに記しており、また基煕から東山天皇に報告された際、天皇の様子を「御喜悦の旨、仰せ下し了んぬ」と書いている。
朝廷側はみな一様に吉良義央に冷たく、浅野長矩に同情的であることがわかる。
浅野長直の代に焼失した内裏の再建を請け負った浅野家に対し、後西天皇に対する譲位圧力など幕府の様々な朝廷政治工作にかかわっていたであろう吉良義央は朝廷からも憎まれていたのかもしれない。