東郷重位 (TOGO Chui)

東郷 重位(とうごう ちゅうい/しげかた、永禄4年(1561年) - 寛永20年6月27日 (旧暦)(1643年8月11日))は薩摩藩の武士にして示現流剣術の流祖。
幼名は弥十郎、通称は藤兵衛。
のち、長門守、和泉守、越前守、肥前守。
諱は重位、示現流では口伝で「ちゅうい」とする。
瀬戸口重為の三男。
瀬戸口家は北薩の土豪薩摩東郷氏の遠戚にあたり、同時代の史料には瀬戸口藤兵衛または瀬戸口肥前守の名で登場することがある。
天正年間に兄の東郷重治とともに東郷氏嫡家17代目東郷重虎の許可をもらい、東郷氏に複姓した。
なお、外孫で古示現流開祖の種子島時貞の系図『種子島氏支族美座対馬守時里二男国上氏系図』(「伊地知季安著作集三」の『諸家系図文書四』の史料)では『東郷肥前重信』と表記されている。

経歴
若い頃はタイ捨流を学んだ。

天正6年(1578年)11月の大友氏との戦いである耳川の戦いが初陣で、薬丸兼成を親分として、首級をあげる。

天正15年(1587年)、仕えていた島津氏が豊臣秀吉の前に敗北し、重位は島津義久に従って上洛する。
本当の目的は内職のため金細工の修行をすることだったらしい。
しかしながら、天寧寺の善吉和尚に出会い彼の剣術(天真正自顕流)に開眼、修行の後薩摩に帰国する。

帰国の後、天正17年(1589年)、国分郷の鳥越に帰る。
天真正自顕流に元々学んでいたタイ捨流の技術を組み合わせて独自の創意工夫を加えていった。

庄内の乱の勃発した慶長4年(1599年)頃には島津家中内に既に大勢の門人をかかえていた。
やがてその名声が島津忠恒に聞こえるところとなり、慶長9年(1604年)、忠恒の御前試合でタイ捨流の剣術師範を破り、島津家兵法師範となる。
ちなみにこのとき逆上した忠恒を一刀のもとに打ち伏せたという逸話も伝わる。
その後、南浦文之により「示現流」という流派名を命名される。

「慶長15年9月22日 九満崎御宮作ニ付すすめ日記」に「同(真米)壱升 東郷長門守殿」とある。

きわめて礼儀正しく、物事を荒立てない人格者であったといわれ、薩摩藩家老から島津家内部の密事に関わる相談事を受けることも多々あった。
後に薩摩藩密貿易の拠点とも言われた坊津(現在の南さつま市坊津町)の地頭となったところからみても、剣術だけの人物でなかったことは確かである。
また、「坊郷地頭職就任時に鹿児島城下に宅地2反3畦17部半を賜る」と「平姓東郷氏支族系図」にあり、地頭就任時に国分を去ったと推測される。

重位の石高は400石。
島津忠恒ははじめ1000石を授けようとしたが、重位は思うところあって600石を返還している。
隠居後、100石を与えられた。

墓所は曹洞宗南林寺 (鹿児島市)。
法名は能学俊芸庵主。

家族・親族

兄弟:瀬戸口弥左衛門、東郷重治
妻:松本(あるいは松元)伊予の娘
子:1男3女〔北郷久利の妻、和田正貞の妻、東郷重方、堀興延の妻〕

[English Translation]