松平定敬 (MATSUDAIRA Sadaaki)
松平 定敬(まつだいら さだあき)は、幕末の桑名藩第4代藩主(藩主在任:安政6年(1859年) - 慶応4年(1868年)。
京都所司代。
定綱系久松松平家13代。
官位は従四位近衛府(明治維新後に従二位)。
美濃国高須藩(岐阜県海津市)藩主松平義建の八男。
兄に会津藩主松平容保、尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂徳などがいる。
生涯
弘化3年(1847年)12月2日、松平義建の八男として江戸市ヶ谷の高須藩江戸邸で生まれる。
幼名は銈之助。
安政6年(1859年)に桑名藩主・松平定猷が死ぬと、長男・万之助(後の桑名藩主・松平定教)が3歳と幼少であったため、14歳で定猷の娘・初姫(当時3歳)の婿養子として迎えられた。
藩主となり、従五位越中国に叙任される。
初姫の祖母・順祥院は薩摩藩主の娘で、藩政に干渉する順祥院と事あるごとに対立した。
万延元年(1860年)、従四位に叙せられ、侍従を兼任。
伺候席となる。
文久3年(1863年)の徳川将軍家・徳川家茂の上洛の際には、京都警護を勤めるために随行する。
元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、同年の禁門の変では会津藩とともに長州藩の兵を撃退した。
天狗党の乱でも出兵している。
慶応元年(1865年)、近衛府に転任。
越中守は兼任。
慶応4年(1868年)に鳥羽伏見の戦いが起こり戊辰戦争がはじまると、徳川慶喜に従い江戸の霊巌寺(江東区)にて謹慎した。
江戸城では抗戦派と恭順派が争い、大久保一翁と勝海舟により恭順工作が進められていた。
更に桑名藩は会津と並んで新政府側からは敵視されており、国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から先代当主の遺児・万之助(後の定教)をかついで恭順する事を家老達が決めていた。
そのため、徹底抗戦派と見られていた定敬の帰国は困難な状況となった。
定敬は一翁から桑名藩の分領である越後国柏崎へ赴く事を勧められ、横浜市からプロシア船「コスタリカ号」で柏崎へ渡る。
その後は若松城で兄の松平容保と再会し、仙台市から榎本武揚の艦隊で函館市へ渡った。
明治2年(1869年)に横浜へ戻り降伏し、明治5年(1872年)1月6日に赦免される。
同年2月に許嫁の初子と結婚した。
明治10年(1877年)に起こった西南戦争には、旧桑名藩士を率いて遠征した。
明治27年(1894年)、日光東照宮の宮司となる。
明治41年(1908年)7月12日、死去。
法号:大心院殿。
墓所は東京都豊島区の染井霊園にある。