松平家忠 (MATSUDAIRA Ietada)
松平 家忠(まつだいら いえただ、弘治 (日本)元年(1555年) - 慶長5年8月1日 (旧暦)(1600年9月8日)は、戦国時代 (日本)から安土桃山時代にかけての武将で、徳川氏の家臣。
深溝松平家の第4代当主で、通称は又八(郎)、天正20年ころからは主殿助。
彼の記した日記(『家忠日記』)は、戦国武将の生活や当時の有力大名を知る上で貴重な史料となっている。
生涯
深溝松平家第3代当主松平伊忠と鵜殿長持の娘の長男として、深溝松平家の居城である三河国額田郡の深溝城(現在の愛知県幸田町深溝)で生まれた。
家忠が元服したころの深溝松平家は、本家である徳川家康に服属し、家康に東三河の支配を任されていた酒井忠次(吉田城 (三河国)代)の指揮下にあった。
天正3年(1575年)5月の長篠の戦いには父とともに従軍、酒井忠次率いる鳶巣山攻撃軍に加わったが、ここで父が戦死したために数え21歳で家督を引き継いだ。
なお、時期は不明ながら天正初年ころに刈谷城主水野信元の弟水野忠分の娘を妻に迎えている。
その後、家忠は各地の合戦に従軍するが、合戦そのものよりも浜松城・牧野城(諏訪原城)・新城城・横須賀城、また高天神城攻めの付城(前線基地)などの城郭の普請や補修などに従事しており、土木に技能を持っていたことがうかがえる。
天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると、武蔵国埼玉郡に1万石を与えられ、忍城(現在の埼玉県行田市)を本拠とした。
本来忍は家康の四男・松平忠吉が10万石で与えられたものだが、忠吉はまだ幼少のため、彼が成人するまでは家忠が預ったものである。
その後、忠吉が正式に城主になると改めて下総国小見川(現在の千葉県香取市)に移封され、上代城(同市櫻井)を本拠とした。
慶長5年(1600年)、家康の命で鳥居元忠、内藤家長らと共に伏見城の守備に残り、石田三成ら西軍の挙兵を誘った。
そして目論見どおりに三成は挙兵したが、家忠らは関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで戦死し、城は落ちた。
享年46。
家忠日記
深溝松平家の家忠は戦国武将としてよりも、彼が記した日記である『家忠日記』(いえただにっき)の著者として有名である。
これは天正3年(1575年)から文禄3年(1594年)10月までの17年間、その日に何が起こったかを簡潔に書き綴った日記である。
原本は家忠の嫡孫で江戸時代初期の深溝松平家の当主松平忠房 (島原藩主)が修補したものが保管され、現存する。
基本的には天候や季節の淡々とした記述であるが戦の記述も多くある。
出来事や天候に対する自らの感想など感情的な文章はほとんど書いていないが、能を鑑賞したり連歌や茶道を楽しんだとの記述があり、家忠の文化人としての人間性をうかがう事ができる。
また、当時の政治情勢や家康の生活ぶり、そして大名の日常生活や習慣を知る上では重要な史料である。
なお、将棋の現存最古の図面が日記に登場している。
ただ図面が描かれているだけで家忠が指したかどうかは定かでないが、増川宏一によれば対局者は相当弱い棋力であり、実力は級位者程度であろうという。