柳原資廉 (YANAGIWARA Sukekado)

柳原 資廉(やなぎわら すけかど、正保1年6月30日 (旧暦)(1644年8月2日) - 正徳 (日本)2年9月29日 (旧暦)(1712年10月29日))は江戸時代前期の公卿。
武家伝奏役などをつとめて主に霊元天皇・東山天皇の御世の朝廷政治において活躍した。
また元禄赤穂事件の際に浅野長矩が饗応を命じられていた勅使でもある。

経歴
1644年、柳原資行(権大納言)の第二子として京都に誕生。
母は園基音(権大納言)の姫であり、したがって同じく園基音の姫を母とする霊元天皇とは母方の従兄弟にあたる。
資廉が柳原家歴代当主の中でも特に栄進したのはこれが大きな背景であった。
はじめ方光という長男がいたが、病弱であったために資廉が代わりに柳原家の世子となる。
この柳原家は藤原北家真夏流の日野家の庶流で、名家(大納言まで出世できる家格・羽林家の下)にあたる。
南北朝時代 (日本)に日野俊光の四男柳原資明が居住していた柳原殿を名字として起こした家柄である。

資廉は、後光明天皇時代の1650年に叙爵された。
1657年の元服とともにはじめて昇殿して111代後西天皇に謁見。
1672年に蔵人頭となり、1673年には参議・右大弁をつとめる。
1681年から1687年までの間には権大納言として朝廷政治の中枢にあり、またこの間の1684年からは武家伝奏を兼務して幕府との交渉に活躍し、1708年まで同職に在職した。
官位は最終的に従一位まで昇進する。
1712年に死去。
享年69。
京都浄福寺に葬られた。

元禄赤穂事件
新年が来ると幕府将軍は高家を名代として天皇と上皇(院)に対して新年祝賀の奏上をおこない、天皇と上皇はそれに対する勅答の使者(天皇の使者は勅使といい、上皇の使者は院使または仙洞使(当時上皇は仙洞御所という所で院政を執ったため)という)を3月に江戸へ下向させるのが江戸時代の毎年の慣例であった。
元禄赤穂事件があった1701年3月にはこの柳原と高野保春が東山天皇の勅使として下向していた。
浅野長矩は幕府よりこの両名の接待係を命じられていたわけである。
が、周知の如く、浅野は最も重要な勅答の儀が行なわれる3月14日に役目を放り出して凶事をおこした。
このとき幕府老中は穢れの中で勅答の儀を続行すべきか否か柳原に伺いを立てたが、柳原は「穢れ事に及ぶ事でもなく、苦しからず」として儀式続行を指示した。
柳原のこの冷静さのおかげで、勅使饗応役は浅野長矩から戸田忠真に、場所は白書院から黒書院へと変えられながらも儀式は滞りなく執り行なうことができたのである。

[English Translation]