柳生宗矩 (YAGYU Munenori)
柳生 宗矩(やぎゅう むねのり)は江戸時代初期の武将、大名、剣術家である。
徳川将軍家の剣術師範。
大和国柳生藩初代藩主。
剣術の面では将軍家師範としての江戸柳生の地位を確立した剣豪政治家。
人物
大和国柳生の領主で、永禄8年(1565年)に上泉信綱から新陰流の印可状を伝えられた剣術家・柳生宗厳(石舟斎)の五男。
母は興原助豊の娘である。
兄に柳生厳勝、柳生宗章らがいる。
少年時代に太閤検地の際の隠田の露見によって父が失領していたが、文禄3年(1594年)に父とともに徳川家康に仕えた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに功をたて、父の旧領の大和国柳生荘に2000石を与えられる。
慶長6年(1601年)にのちの2代将軍・徳川秀忠の剣術師範役となり、ついで3代将軍・徳川家光にも剣術師範として仕えた。
慶長20年(1615年)の大坂の役では将軍秀忠のもとで従軍、秀忠の元に迫った豊臣方7人を斬り捨てている。
なお、宗矩が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの時だけである。
翌元和 (日本)2年(1616年)には友人でもあった坂崎直盛の反乱未遂事件の交渉と処理に活躍する。
なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府はその後、坂崎家を取り潰している。
その約束で直盛の説得を行った宗矩は結果的に友人を陥れたことになった。
宗矩はそれを終生忘れぬためなのか柳生家の家紋(地楡:吾亦紅われもこう)に坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて(譲り受け?)使い続けている。
次第に将軍の信任を深めて加増を受け寛永6年(1629年)に従五位下に叙位、但馬守に任官する。
寛永9年(1632年)には初代の幕府総目付(大目付)となり、諸大名の監視を任とした。
寛永13年(1636年)の加増で計1万石を受けて大名に列し、大和国柳生藩を立藩。
晩年さらに加増を受けて位階は従四位下に昇叙、所領は1万2500石に達した。
正保3年(1646年)に没し、自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の芳徳寺に葬られた。
享年76。
なお、そのほかに、練馬区桜台の広徳寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。
子には隻眼の剣士として有名な長男の柳生三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した柳生友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ柳生宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4子が知られる。
逸話
喫煙者であり、沢庵の度重なる諫言にも関わらず吸い続けた。
乱舞や能を好み、大名家に押しかけて踊ることもあった。
嫡子・十兵衛が隻眼になったのは、宗矩が月影の太刀伝授中に誤って傷つけたためと言われている。
家光は宗矩の死後何かあると、「この問題は宗矩がいたらどうしただろう」と言ったとされる。
創作物上の扱い
宗矩については勝海舟が絶賛していることで有名。
山岡荘八は大河ドラマ『春の坂道』のために原作を書き下ろしている。
この作品での宗矩は情誼に篤い剣聖であり、家光のよき師として描かれている。
しかし、近年特に見られる傾向だが(秀忠に仕えていたためもあってか)多数の作品で悪役として描かれることが多い。
(小説では五味康祐、隆慶一郎、荒山徹の諸作『影武者徳川家康』や漫画『あずみ』、映画・ドラマ『柳生一族の陰謀』、大河ドラマ『武蔵 MUSASHI』、ゲーム『鬼武者』など)
そのため、これらの作品を通じて柳生宗矩を知るとその印象に混乱をきたすおそれがある。
また時代や価値観によって描かれ方が異なり、政治的な視点を通して見ると文武両道の太平を望み尽力した人格者として描かれることがあるが、純粋に剣術的な視点からの描き方だと達人ではあるが同時代の剣豪や父、息子・十兵衛、甥の柳生利厳(兵庫助)には一手及ばず、政を以って剣を歪めた悪役として描かれる事もある。
ただ、どのような描かれ方でも厳格で知勇兼備であるという点ではぶれがなく、傑物としての宗矩像は共通している。