栄西 (Eisai)
明菴 栄西(みんなんえいさい・ようさい、諡は千光国師、葉上(ようじょう)房とも称した。
永治元年4月20日 (旧暦)(1141年5月27日) - 建保3年7月5日 (旧暦)(1215年7月2日))は、仏教宗派・臨済宗の開祖、建仁寺の開山。
生年には異説がある。
天台宗葉上流の流祖でもある。
また、喫茶の習慣を日本に伝えたことでも有名である。
経歴
永治元年(1141年) 吉備津宮(現在の岡山県岡山市、吉備津神社 (岡山市))の権禰宜賀陽貞遠の子として誕生。
『紀氏系図』(『続群書類従』本)には異説として紀季重の子・重源の弟とする説を載せている。
しかし、これは重源が吉備津宮の再興に尽くしたことや重源が務めていた東大寺勧進職を栄西が継いだことから生じた説であり、史実ではないと考えられている。
久安4年(1148年) 8歳で『倶舎論』、『婆沙論』を読んだと伝えられる。
久寿元年(1154年) 14歳で比叡山延暦寺にて出家得度。
以後、延暦寺、吉備国安養寺、伯耆国大山寺 (鳥取県西伯郡大山町)などで天台宗の教学と密教を学ぶ。
行法に優れ、自分の坊号を冠した葉上流を興す。
仁安 (日本)3年(1168年) 形骸化した日本天台宗に嫌気し、南宋に留学。
天台山万年寺などを訪れ、『天台章疎』60巻を将来する。
当時、南宋では禅宗が繁栄し、それに大いに感化された。
仏法復興のために禅の重要性を感じたとされる。
文治3年(1187年) 再び入宋。
仏法辿流のためインド渡航を願い出るが許可されず、天台山万年寺の虚庵懐敞に師事。
建久2年(1191年) 虚庵懐敞より臨済宗の嗣法の印可を受ける。
同年、帰国。
福慧光寺、千光寺などを建立し、筑前国、肥後国を中心に布教に努める。
建久5年(1194年) 彼や大日房能忍の禅宗が盛んになり、天台宗からの排斥を受け、禅宗停止が宣下される。
建久6年(1195年) 博多に聖福寺 (福岡市)を建立し、日本最初の禅道場とする。
同寺は後に後鳥羽天皇より「扶桑最初禅窟」の扁額を賜る。
栄西は自身が真言宗の印信を受けるなど、既存勢力との調和、牽制を図った。
建久9年(1198年) 『興禅護国論』執筆。
禅が既存宗派を否定するものではなく、仏法復興に重要であることを説く。
京都での布教に限界を感じて鎌倉に下向し、幕府の庇護を得ようとした。
正治2年(1200年) 北条政子建立の寿福寺の住職に招聘。
建仁2年(1202年) 源頼家の外護により京都に建仁寺を建立。
建仁寺は禅・天台・真言の三宗兼学の寺であった。
以後、幕府や朝廷の権力に取り入り、それを利用して禅宗の振興に努めた。
建永元年(1206年) 重源の後を受けて東大寺勧進職に就任。
建暦2年(1212年) 法印に叙任。
建保元年(1213年) 権僧正に栄進。
政治権力にひたすら追従する栄西には当時から多くの批判があった。
特に栄西が幕府を動かし、大師猟号運動を行ったことは大きな非難を浴びた。
栄西の策動は生前授号の前例が無いことを理由に退けられる。
しかし、天台座主慈円は『愚管抄』で栄西を「増上慢の権化」と罵っている。
建保3年(1215年) で病没。
終焉の地は鎌倉、京都の2説がある。
他者からの栄西観
日本曹洞宗の開祖である道元は、入宋前に建仁寺で修行しており、師の明全を通じて栄西とは孫弟子の関係になる。
栄西を非常に尊敬し、夜の説法を集めた『正法眼蔵随聞記』では、「なくなられた僧正様は…」と、彼に関するエピソードを数回も披露している。
なお、栄西と道元は直接会っていたかという問題は、最近の研究では会っていないとされる。
主な著作
『誓願寺盂蘭盆縁起』栄西唯一の肉筆文書で国宝。
福岡市西区の誓願寺に滞在した折、書いたと見られる。
『喫茶養生記』(古田紹欽全訳注、講談社学術文庫、2000年)
『喫茶養生記』は上下2巻からなり、上巻では茶の種類や抹茶の製法、身体を壮健にする喫茶の効用が説かれている。
下巻では飲水(現在の糖尿病)、中風、不食、瘡、脚気の五病に対する桑の効用と用法が説かれている。
このことから、茶桑経(ちゃそうきょう)という別称もある。
書かれた年代ははっきりせず、一般には建保2年(1214年)に源実朝に献上したという「茶徳を誉むる所の書」を完本の成立とするが、定説はない。
『栄西-興禅護国論・喫茶養生記-』(古田紹欽著、講談社、1994年)