桑山一晴 (KUWAYAMA Kazuharu)
桑山 一晴(くわやま かずはる、天正3年(1575年)- 慶長9年2月26日 (旧暦)(1604年3月26日))は、安土桃山時代の武将。
江戸時代前期の大名で、大和新庄藩の初代藩主。
桑山一重の子で、桑山重晴の孫に当たる。
官位は従五位下。
修理大夫。
幼名は小藤太。
はじめ豊臣氏に仕えて、朝鮮出兵では叔父桑山元晴とともに渡海し功を挙げた。
慶長元年(1596年)祖父重晴が隠居したとき、父一重は既に天正十年に死去していたため、嫡孫の一晴が紀伊和歌山の所領を受け継いだ。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでははじめ西軍に属すが、のち東軍に与して西軍方の紀伊新宮の領主・堀内氏善を攻略した。
戦後に戦功として紀伊和歌山に2万石を与えられた。
慶長6年(1601年)、大和新庄藩に所領を移され、その初代藩主となった。
慶長9年(1604年)2月26日、または2月28日に伏見で死去した。
享年30。
後を弟の桑山一直が継いだ。
法号:機伯活逢春院。
墓所:京都大徳寺の清泉寺。