森可成 (MORI Yoshinari)

森 可成(もり よしなり)は、戦国時代 (日本)の武将。
戦国大名 土岐氏、織田氏家臣。

家系
本姓は源氏。
家系は清和源氏の一家系、河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の7男・源義隆の子孫にあたる。
森氏は義隆の3男・源頼隆の次男・森頼定に始まる(家伝の詳細は森氏の項を見よ)。
同じ織田氏家中には同族の毛利広盛がいる。

可成の家系は頼定の次男・森定氏の子孫が美濃国に住して代々、土岐氏に仕えた。
弟に森可政、子に嫡男・森可隆、次男・森長可、3男・森成利(蘭丸)、4男・森坊丸(長隆)、5男・森力丸(長氏)、6男・森忠政、娘(木下勝俊室)など。

系譜

森判官代頼定-森二郎定氏-頼氏-光氏-氏清-頼俊-森左京亮頼師-頼長-森七郎右衛門尉頼継-可光-越後守可房-森越後守可秀-森越後守可行-森三左衛門可成-森武蔵守長可=森左近衛中将忠政

生涯

大永3年(1523年)、森可行の子として尾張国葉栗郡蓮台(現岐阜県羽島郡笠松町)に生まれる。
美濃国の守護大名である土岐氏に仕え、斎藤道三により土岐氏が滅ぼされた後の天文 (元号)23年(1554年)には尾張で織田信長に仕えた(一説には斎藤氏家臣の長井道利に仕えた後の仕官とも)。

信長の家督相続と尾張統一に尽力し、弘治元年(1555年)の信長による清洲城攻めでは織田信友を討つ功績を挙げた。
弘治 (日本)2年(1556年)に美濃で政変が起こると、信長の舅にあたる道三を援助し、信長とその弟・織田信行の家督争いである稲生の戦いにも参陣した。

永禄元年(1558年)の浮野の戦いにも参加する。
永禄3年(1560年)の駿河国の今川氏との桶狭間の戦いなどにも参加した。

永禄8年(1565年)には美濃金山城 (美濃国)を与えられ、信長上洛の際には柴田勝家と共に先鋒を務め(勝竜寺城勝竜寺城の戦いなど)、上洛後には近江国宇佐山城を与えられた。

元亀元年(1570年)に6月に起こった姉川の戦いにも参戦。
勢いにのって突撃してきた磯野員昌隊の進撃を阻止するなど活躍する。

同年9月、宇佐山城に在った可成は浅井氏・朝倉氏の連合軍出撃の知らせを受けて進軍を妨害する為に宇佐山より出撃して坂本に陣取り街道を封鎖。
9月16日に緒戦においては連合軍を撃退する。
本願寺顕如の要請を受けた延暦寺の僧兵も連合軍に加わり、9月20日にさらに数の膨らんだ連合軍の侵攻で先鋒の朝倉景鏡を押し返すなど健闘を見せる。
だが、浅井対馬・玄蕃の2千に側面から攻撃を仕掛けられ、さらに朝倉中務、山崎吉家、阿波賀三郎の隊に加え浅井長政本隊もこれに加わったため信長の弟・織田信治とともに討死した。
この時の記録には次の様に書き残されている。
「浅井長政、朝倉義景の大軍、短兵急に戦うによって、森可成、織田九郎防戦火花を散らし、九天九地の下を通り、終日合戦なり。
浅井、朝倉新手を入れ替えて攻め戦うによって、織田九郎、森可成両将とも下坂本瀬戸在家にて討ち死になり」とある。
享年48。

討ち死にしたものの坂本で数日間に渡って浅井・朝倉連合軍の行軍を妨害し近江に釘付けにした為、連合軍は信長の背後を突くことは出来なかった。

人物・逸話

槍の名手で、関兼定(大政所の父と言われる鍛冶屋)銘の十文字槍の使い手であった。
武勇の誉れ高く攻めの三左という異名を誇った。

織田家においては柴田勝家より以前に信長に仕えた年長組で、坂井政尚や金森長近、蜂屋頼隆ら美濃衆として活動した。
信長は可成の死を深く悲しみ、直後に弔い合戦として浅井・朝倉軍に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちすることになる原因のひとつになったという。
この比叡山焼き討ち (1571年)においては、森家の遺族は幼少の子らが多くこの戦に加わっていないが、そもそも森家の血筋は祖先 陸奥七郎義隆が比叡山の僧兵の矢に倒れたという因縁があり、この度の可成討ち死にの要因をも作った。
比叡山とは積年の因縁で結びついていたといえよう。

戦で指が一本欠けており手足の指が合わせて19本であったため「十九」という蔑称で呼ばれる事もあったという。

比叡山延暦寺焼き討ちの際に寺院や坂本の町は悉く焼き払われ、僧も虐殺されたが可成の墓所の有る聖衆来迎寺だけは手出しをされなかった。

年表

天文_(元号)23年(1554年)5月、前年、織田信長の主筋であった尾張守護代・織田信友が尾張守護・斯波義統を殺害したため、信友を謀反人として清洲城に攻める。
可成、この戦いにおいて敵将・織田信友を討ち取り、首級を挙げる。

弘治 (日本)2年(1556年)

4月、斎藤道三、義龍親子の内紛において、退却中に斎藤方の千石又一と激しく渡り合い、無事織田軍を退却に導く。

8月、織田家家老 林秀貞、柴田勝家らが織田信行を奉じて信長に反旗、稲生の戦いで林隊に斬り込み獅子奮迅の活躍。

永禄元年(1558年)7月、尾張上4郡守護代で岩倉城主・織田信安と対峙、浮野の戦いにおいて先陣を務める。
劣勢であったが、死闘の末、可成ら信長方奮戦により勝利を導く。

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川方の田宮左近を討ち取る。
同戦いにて、織田から今川に転じた山口教継、戸部新左衛門の名を語らい、両名が織田に内通していると流言飛語の策を弄し、両名が今川義元の手討ちとなり、敵方切り崩しに成功。
また可成はこの戦で四宮某を討ち取る。

永禄7年(1564年)夏、織田軍、美濃に攻め入り、長井道利の堂洞城を攻め、陥落。
斎藤龍興・長井道利の追撃を破った。
恩賞として美濃国烏峰城主に封じられる(改築の上、金山城 (美濃国)に改名)。

永禄10年(1567年)、可成によって、かねて内応を打診していた西美濃三人衆、安藤守就、稲葉一鉄、氏家卜全が織田家に転じる。

永禄11年(1568年)、足利一門・足利義栄を旗頭とする三好三人衆の謀叛に倒れた室町幕府の第13代将軍・足利義輝の弟・足利義昭が信長を頼って美濃国を訪れてきた為、織田家は義昭を新将軍に推戴するため、義昭を奉じ上洛の途につく。

9月11日、織田勢は義昭方への協力を拒否した六角氏の拠点、近江国箕作城を攻める(観音寺城の戦い)。
可成は竹邊源八等とともに先陣を務め、六角氏を下して9月26日に上洛を果たす。
上洛後すぐに足利義栄を奉じる三好方の山城国勝龍寺城を攻め、城主・岩成友通を降参せしむ。
また摂津国芥川城・小清水城・池田城等の諸城も落とす。

元亀元年(1570年)

4月25日、政権運営を巡りかねて信長と対立を深めた足利義昭に呼応して信長包囲網を形成した朝倉氏を攻めるため、朝倉の支配する越前国天筒山城を攻めに加わる。
翌日、陥落。
越前国金ヶ崎城、疋田城を落とす。
その後、信長妹婿 浅井長政信長に離反し敵対の姿勢を見せる。
織田軍撤退を余儀なくされ、可成は朽木谷の朽木元綱に対し織田家主従の京都帰還への協力を依頼する。

6月26日、姉川の合戦。
織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍衝突。
可成は第五陣に附属し出陣。

9月、石山本願寺蜂起(野田城・福島城の戦い)。
織田軍鎮圧の途につくも、背後から浅井・朝倉連合軍が挙兵。
宇佐山城守備を命ぜられ奮戦。
9月16日の緒戦において勝利し、9月20日の戦では朝倉景鏡隊を追い返し、同じく朝倉方山崎吉家隊、阿波賀小三郎隊、浅井方の浅井玄蕃允隊、浅井長政旗本らと交戦。
この合戦の最中に討ち死。

[English Translation]