森忠政 (MORI Tadamasa)

森 忠政(もり ただまさ、元亀元年(1570年) - 寛永11年7月7日 (旧暦)(1634年7月31日))は戦国時代 (日本)の武将。
江戸時代初期の大名。
信濃国川中島藩主、のち美作国津山藩の初代藩主。
赤穂藩森家初代。

家系

本姓は源氏。
清和源氏の一家系 河内源氏の流れ。
源義家の四世孫・森頼定を祖とする。
詳細は森氏の項を参照。

生涯

天正10年(1582年)、織田信長に小姓として出仕するが、同僚との喧嘩を信長に見咎められ、まだ幼すぎるとして母親のもとに返された。
結果としてこれが幸いして本能寺の変に巻き込まれずに済んだ。

天正12年(1584年)、兄の長可が小牧・長久手の戦いで戦死し、既に他の兄たちも早世していたため、家督を相続。
美濃国金山城 (美濃国)に7万石を領した。
天正15年(1587年)には豊臣秀吉から羽柴姓を賜られ、羽柴金山侍従と称す。

朝鮮出兵の折には、九州の名護屋城普請奉行を勤め、兵2000を率いて参陣している。
(渡海はしていない)

秀吉没後は徳川家康に近づき、慶長5年(1600年)に家康から信濃国松代藩に13万7000石を与えられた。
同年の関ヶ原の戦いでは東軍に与し、徳川秀忠の軍勢に属して西軍に属した真田昌幸の居城・上田城攻撃に参加した。
(このとき、秀吉から賜った羽柴姓から森姓に姓を戻している)
戦後、それらの戦功により津山に18万石を与えられ、津山藩の初代藩主となった。
寛永11年(1634年)、卒去。
(モモを食べた後に腹痛を起こし、そのまま亡くなったといい、食中毒で死去したとされる)
京都紫野大徳寺塔頭三玄院(石田三成の菩提寺でもある)に葬られる。
戒名 本源院殿前作州太守先翁宗進大居士。

官歴

※日付=旧暦

天正13年(1585年)10月6日、従五位下右近丞に叙任。

天正15年(1587年)2月6日、従四位下侍従。
これより「右近大夫忠政」と称す。

寛永3年(1626年)8月19日、従四位上左近衛権中将。

[English Translation]