楠木正行 (KUSUNOKI Masatsura)
楠木 正行(くすのき まさつら)は、南北朝時代 (日本)の武将。
楠木正成の嫡男。
「大楠公」と尊称された父の正成に対して小楠公(しょうなんこう)と呼ばれる。
前名は正之(まさより・まさこれ)と伝わる。
生涯
生い立ち
彼の生年については明確な史料が存在しない。
『太平記』には父との「桜井の別れ」の当時は11歳であったとあることから1326年とも推測されているが、これは多くの史家が疑問視している。
『太平記』の記述を疑って正行の生年をもう少し遡らせる説も古くからあるが、明確な史料が存在しない以上推測の域を出ない。
楠木正成の長男として河内国に生まれた。
幼名は「多聞丸」。
幼少の時、河内往生院などで学び、武芸を身に付けた。
延元元年/建武 (日本)3年(1336年)の湊川の戦いで父の正成が戦死した後、覚悟していたこととはいえ、父・正成の首級が届き、衝撃のあまり仏間に入り父の形見の菊水の短刀で自刃しようとしたが、生母に諭され改心したという。
正行は亡父の遺志を継いで、楠木家の棟梁となって南朝 (日本)方として戦った。
正成の嫡男だけあって、南朝から期待されていたという。
足利幕府の山名時氏・細川顕氏連合軍を摂津国天王寺・住吉浜にて打ち破っている。
四條畷の戦い
正平 (日本)3年/貞和4年(1348年)に河内国北條(現在の大阪府四條畷市)で行われた四條畷の戦い(四條縄手)において足利方の高師直・高師泰兄弟と戦って敗北し、弟の楠木正時と刺し違えて自害した(享年に関しては諸説がある)。
先に住吉浜にて足利方を打ち破った際に、敗走して摂津国・渡部橋に溺れる敵兵を助け、手当をし衣服を与えて敵陣へ送り帰した。
この事に恩を感じ、この合戦で楠木勢として参戦した者が多かったと伝えられている。
かねてより死を覚悟しており、後村上天皇よりの弁内侍賜嫁を辞退している。
そのとき詠んだ歌が以下である。
「とても世に 永らうべくもあらう身の 仮のちぎりを いかで結ばん」
この合戦に赴く際、辞世の句(後述)を吉野の如意輪寺の門扉に矢じりで彫ったことも有名である。
決戦を前に、正行は弟正時・和田賢秀ら一族を率いて吉野行宮に参内、後村上天皇より仰せを頂いた。
「朕汝を以て股肱とす。」
「慎んで命を全うすべし。」
しかし決死の覚悟は強く、参内後に後醍醐天皇の御廟に参り、その時決死の覚悟の一族・郎党143名の名前を如意輪堂の壁板を過去帳に見立てその名を記して、その奥に辞世を書き付け自らの遺髪を奉納したという。
地の利を失っては勝ち目が薄い。
家督は三男の正儀が継いだ。
その後
明治維新の尊王思想の模範とされた、その誠忠・純孝・正義により明治9年従三位を追贈された。
明治22年には殉節地の地元有志等による正行を初め楠木一族を祀る神社創祀の願いが聴届けられ、社号宣下と別格官幣社列格の勅許が下りた。
翌明治23年、社殿が竣功し、正行を主祭神とする四條畷神社が創建された。
さらに明治30年には従二位が追贈された。
墓所は複数存在する。
京都市右京区の宝筐院に墓(首塚)がある。
また、彼の敵である足利幕府二代将軍足利義詮は遺言に「自分の逝去後、かねており敬慕していた観林寺(現在の宝筐院)の楠木正行の墓の傍らで眠らせてもらいたい」とあり、遺言どおり、楠木正行の墓(五輪石塔)の隣に彼の墓(宝筐印塔)は建てられた。
大阪府東大阪市の往生院六萬寺にも墓があり、こちらには胴体が葬られている。
大阪府四條畷市にも墓があり、こちらには巨大な楠が植えられている。