楠葉西忍 (KUSUBA Sainin)

楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年(1395年) - 文明 (日本)18年2月13日(1486年3月18日))は、室町時代の商人。
父は天竺人の「ヒジリ」。
幼名はムスル。
俗名(通称)は天次で、西忍は出家した後の号。
もとは「天竺」を姓とした。

父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性もあり)の商人・ヒジリは足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の庇護を受けていた。
やがて河内国の楠葉(現大阪府枚方市樟葉駅付近)の娘を妻とし、西忍が生まれた。
のち西忍が楠葉を姓としたのは母の出身地による。
はじめ京都の三条坊門烏丸に居住し「有徳の者」と称されたが、征夷大将軍足利義持の勘気を受けて(詳細は不明)、父子ともに大和国立野に移り住み、興福寺大乗院に奉仕する。

父の死後、大乗院の坊主・実弾房宗信の妹・戌亥を娶る。
永享元年(1429年)に長男の元次が誕生した。
その後もさらに二男二女を得る。
永享4年(1432年)はじめて遣明船にて明国へ渡航。
享徳2年(1453年)二度目の渡明では、興福寺末寺の多武峰寺・長谷寺共同の船の外官となり、息子元次を同行させた。
南京市を経て、首都北京市まで赴き、直接貿易に関わり、銅と生糸・明銭などの交易に携わった。

これらの西忍の交易活動は、帰国後興福寺に報告され、大乗院主尋尊によって「大乗院寺社雑事記」「唐船日記」などに詳細に記されており、当時の日明勘合貿易の実際を知る上での貴重な史料となっている。

晩年は大和古市に寓居し、文明 (日本)18年に死去。享年92。

[English Translation]