樋口一葉 (HIGUCHI Ichiyo)
樋口 一葉(ひぐち いちよう)1872年5月2日(明治5年3月25日 (旧暦)) - 1896年(明治29年)11月23日)は、日本の小説家。
東京生れ。
本名は夏子、戸籍名は奈津。
中島歌子に歌、古典を学び、半井桃水に小説を学ぶ。
生活に苦しみながら、「たけくらべ」「十三夜 (小説)」「にごりえ」といった秀作を発表、文壇から絶賛される。
わずか1年半でこれらの作品を送ったが、25歳(数え年、以下同様)で肺結核により死去。
『一葉日記』も高い評価を受けている。
生涯
1872年5月2日(明治5年3月25日)、東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。
本名は樋口奈津。
父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第五子で、一葉は二女。
姉のふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、後に妹くにが生れた。
父親の則義は甲斐国山梨郡中萩原村(現、甲州市塩山市)の百姓であった。
祖父は俳諧などの文芸や経書に親しんでいたようで、則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため駆け落ち同然に江戸に出たという。
則義は蕃書調所の小使いから1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となった。
明治維新後には下級役人となり士族の身分を得るが、1876年(明治9年)に免職となる。
その後は不動産の斡旋等で生計を立てている。
少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類いを読み、7歳の時に曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。
1877年、本郷小学校に入るが、幼少のために続かず、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学した。
1881年(明治14年)、次兄の虎之助が分家し、陶器絵付師に弟子入りした。
同年には下谷区御徒町へ移ったため、11月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。
高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まずに退学した。
これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという。
一方、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせたという。
1886年(明治19年)、父の旧幕時代の知人である遠田澄庵の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門。
ここでは和歌のほか千蔭流の書や古典文学を学んでおり、源氏物語などの王朝文学が一葉の初期作品のモチーフになっている。
萩の舎時代に一葉は親友の伊東夏子や田辺龍子と出会い、助教として講義もしている。
萩の舎は当時、公家や旧老中・旧藩主などの旧体制、明治政府の特権階級の政治家・軍人の夫人や令嬢らが通う歌塾だった。
士族とはいえ元農民出身であったため、一葉は平民組として扱われ、上流階級の姉弟子たちにから「ものつつみの君」と呼ばれるほど内向的になる。
入門して初めの正月、新春恒例の発会が近づくと、令嬢たちの晴れ着の話題など、着物の話はとても下級官吏の娘が競える内容ではなかった。
それでも劣等感をはねのけ、親が借りてきた古着で出席した。
一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引っ越しをした。
1888年(明治21年)、戸主であった長男の泉太郎が死去し、父を後見に相続戸主となる。
1889年(明治22年)、則義は荷車請負業組合設立の事業に失敗し、同年7月に死去。
一葉の許婚であった渋谷三郎との婚約が解消される。
則義の死後、樋口家には多額の借金があったのに渋谷三郎から高額の結納金を要求されたことが原因とされる。
一葉は17歳にして戸主として一家を担う立場となり、1890年(明治23年)には萩の舎の内弟子として中島家に住む。
同年9月には本郷菊坂(東京都文京区)に移り母と妹と三人での針仕事や洗い張りをするなど苦しい生活を強いられる。
ただし一葉自身は労働に対する蔑視が強く、針仕事や洗い張りはもっぱら母や妹がこなしていたと言われる。
一葉は近眼のため細かい仕事が不得手であったので、自分にできる他の収入の道を探していた。
同門の姉弟子である田辺花圃が小説『薮の鶯』で多額の原稿料を得たのを知り、小説を書こうと決意する。
20歳で「かれ尾花一もと」を執筆。
同年に執筆した随想で「一葉」の筆名を初めて使用した。
さらに小説家として生計を立てるため、朝日新聞小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し、図書館に通い詰めながら処女小説「闇桜」を桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した。
その後も、桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続ける。
次第に、一葉は桃水に恋慕の感情を持つようになる。
しかし二人の仲の醜聞が広まった(双方独身であったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮であった)ため、桃水と縁を切る。
桃水とけじめをつけるかのように全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、一葉の出世作となる。
ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い自然主義文学に触れあった一葉は、「雪の日」など複数作品を「文學界」で発表。
このころ、検事になったかつての許婚者阪本三郎(前述の渋谷三郎)が求婚してくるが拒否する。
生活苦打開のため、吉原_(東京都)遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開いたが1894年(明治27年)5月には店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の西片一丁目)に転居する。
この時の経験が後に代表作となる小説「たけくらべ」の題材となっている。
執筆を継続した。
12月に「大つごもり」を「文學界」に、翌1895年(明治28年)には1月から「たけくらべ」を7回にわたり発表した。
その合間に「ゆく雲」「にごりえ」「十三夜 (小説)」などを発表し、「大つごもり」から「裏紫」にかけての期間は「奇跡の14ヶ月」と呼ばれる。
1896年(明治29年)には「文芸倶楽部」に「たけくらべ」が一括掲載されると鴎外や露伴らから絶賛を受け、森鴎外は「めさまし草」で一葉を高く評価し、「文学界」同人も多く訪れるようになる。
5月には「われから」、『日用百科全書』に「通俗書簡文」を発表。
一葉は結核の症状が進行しており、8月に診断を受けたが絶望と診断された。
11月23日に24歳と8ヶ月で死去。
一葉の作家生活は14ヶ月あまりで、死後の翌1897年には『一葉全集』『校訂一葉全集』が刊行された。
墓は樋口家の菩提寺である築地本願寺別院で、のち杉並区和泉 (杉並区)の西本願寺和田掘廟所へ移された。
法名 (浄土真宗)は、知相院釋妙葉。
肉筆原稿や関係資料などの文学資料は日本近代文学館や山梨県立文学館に所蔵されている。
2004年11月より、日本銀行券の五千円紙幣の肖像に採用されている。
作家評
近代以降では最初の職業女流作家である。
24年の生涯の中で、特に亡くなるまでの1年2ヶ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残した。
家が没落していくなかで、自らが士族の出であるという誇りを終生持ち続けたが、商売が失敗したのもそれゆえであるとみるむきもある。
生活は非常に苦しかったために、筆を折ることも決意したが、雑貨店を開いた吉原_(東京都)近郊での生活はその作風に影響を与えた。
井原西鶴風の雅俗折衷の文体で、明治期の女性の立ち振る舞いや、それによる悲哀を描写している。
『たけくらべ』では吉原近くの大音寺前を舞台にして、思春期頃の少年少女の様子を情緒ある文章で描いた。
ほかに日記も文学的価値が高い。
筆名
「一葉」は雅号で、戸籍名は奈津。
なつ、夏子とも呼ばれる。
「樋口一葉」として知られるが、歌人としては夏子、小説家としては無姓志向の一葉、新聞小説の戯号は浅香のぬま子、春日野しか子として筆名を使い分けている。
発表作品においては「樋口夏子」に類する本名系と「一葉」の雅号系に分類される。
「樋口一葉」と混合した署名を用いている例はわずか一つであり、「たけくらべ」未定稿などにおいて「一葉」と記された署名に別人の手により姓が書き加えられているケースがある。
明治前半期の女性作家においては家への抵抗や姓の変遷などから同様に姓の忌避や創作世界においては雅号を用いるといった署名傾向があり、一葉にも女戸主としての意識が強くあったとも考えられている。
一葉という筆名は、当時困窮していた事(お足が無い)と一枚の葦の葉の舟に乗って中国へ渡り後に手足を失った達磨の逸話に引っ掛けたものである。
五千円紙幣
一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の五千円券に新デザインとして採用された。
女性としては神功皇后(大日本帝国政府紙幣;壱円券は1881年発行開始;肖像は全くの創作)以来の採用である。
なお、2000年に発行開始された弐千円券の裏面に紫式部の肖像画があるが、この肖像画は肖像の扱いではなく、弐千円券には肖像がないことになっている。
よって写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。
偽造防止に利用される髭や顔の皺がすくないため版を起こすのに手間取り、製造開始は野口英世の千円券、福澤諭吉の一万円券より遅れた。
肖像を女性にしたいがための安易な採用との非難がある。
聖徳太子の紙幣使用の終わり(1983年)ごろ、新紙幣の図柄を決める関係者の女性を採用してはという意見の中で、清少納言、紫式部、樋口一葉、与謝野晶子(出生順)の4人が候補に上がったが、当時はいずれも採用にはいたらなかったという逸話がある。
比較的高額の紙幣に採用されたにしては皮肉なことに、一葉の短い生涯は、金策に常に不便するという生涯だった。
ただし一葉が経済的に窮乏した原因には、父親が薦めた許婚者を父親の死後に樋口家側が破棄したこと(ちなみに許婚者は後に秋田県知事・山梨県知事となる)や、一葉の労働に対する蔑視意識、士族や華族を崇拝する思想などの一葉自身の内面的事情が少なくないため、一葉を才能に恵まれながら資金的に不遇な生涯を送った聖人のように考えるのは一方的な見方であるとの意見もある。
樋口家は貧しい中方々から借金をしていたが、士族の誇りからか、さらに困窮した縁故の人々になけなしの金を貸しもしていた。
その他
夏目漱石の妻・夏目鏡子の著書『漱石の思ひ出』によると、一葉の父・則義が東京府の官吏を務めていた時の上司が漱石の父・小兵衛直克であった。
その縁で一葉と漱石の長兄・大助(大一)を結婚させる話が持ち上がったが、則義が度々直克に借金を申し込むことがあり、これをよく思わなかった直克が「上司と部下というだけで、これだけ何度も借金を申し込んでくるのに、親戚になったら何を要求されるかわかったものじゃない。」と言って、破談にしたという。
小説
闇桜(1892年3月、「武蔵野」)
たま欅(1892年3月、「武蔵野」)
五月雨(1892年7月、「武蔵野」)
経づくえ(1892年9月、「甲陽新報」)
うもれ木(1892年11月、「都の花」)
暁月夜(1893年2月、「都の花」)
雪の日(1893年3月、「文學界」)
琴の音(1893年12月、「文學界」)
やみ夜(1894年7月、「文學界」)
大つごもり (小説)(1894年12月、「文學界」)
たけくらべ(1895年1月 - 96年1月、「文學界」)
軒もる月(1895年4月「毎日新聞」)
ゆく雲(1895年5月「太陽」)
うつせみ(1895年8月27日 - 31日「読売新聞」)
にごりえ(1895年9月、「文芸倶楽部」)
雨の夜(1895年9月「読売新聞」)
月の夜(1895年9月「読売新聞」)
十三夜 (小説)(1895年12月、「文芸倶楽部」)
わかれ道(1896年月、「国民之友」)
われから(1896年5月「文芸倶楽部」)
随筆
雁がね(1895年10月「読売新聞」)
虫の音(1895年10月「読売新聞」)
あきあはせ(1896年5月「うらわか草」)
ほとゝぎす(1896年7月「文芸倶楽部」)