横井小楠 (YOKOI Shonan)
横井 小楠(よこい しょうなん、男性、文化 (元号)6年8月13日 (旧暦)(1809年9月22日) - 明治2年1月5日 (旧暦)(1869年2月15日))は日本の武士・熊本藩士、儒学者。
同志社第3代総長で政治家の横井時雄は長男。
本姓は平氏。
生涯
文化6年(1809年)、肥後熊本(現在の熊本県)に、熊本藩藩士の次男として生まれる。
「小楠」は、彼が使った号の一つ。
諱は「時存」(「ときひろ」「ときあり」)であり、正式な名のりは平時存(たいら の ときひろ/ときあり)。
通称は「平四郎」で、北条平四郎時存、北条四郎平時存ともいう。
横井家は平氏北条氏嫡流得宗に発する。
北条高時の遺児北条時行の子が尾張国愛知郡 (愛知県)横江村に住し、時行4世孫にあたる横江時利の子が、横井に改めたのがはじまり。
時利の子は横井時永といい、その子孫は横井時勝、横井時延、横井時泰、横井時安---と続いた。
北条氏の子孫として代々祖先の通字であった「時」の字を名乗りに用いる。
小楠は私塾「四時軒」(しじけん)を開き、多くの門弟を輩出した。
また、坂本龍馬や井上毅など、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くもここを訪問している。
松平慶永の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革、さらには幕府の政事総裁職であった春嶽の助言者として幕政改革にかかわる。
慶応4年(1868年)新政府に参与として出仕するが、翌年参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町通下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺される。
享年61。
殺害の理由は「横井が開国を進めて日本をキリスト教化しようとしている」といった事実無根なものであったと言われている。
しかも弾正台の古賀十郎ら新政府の開国政策に不満を持つ保守派が裁判において横井が書いたとする『天道覚明書』という偽書を作成して横井が秘かに皇室転覆を企てたとする容疑で告発するなど、大混乱に陥った。
紆余曲折の末、実行者であった十津川郷士ら4名が明治3年に処刑される事となった。
人物
鎖国体制・幕藩体制を批判し、それに代わり得るあたらしい国家と社会の構想を「公共」と「交易」の立場から模索した。
小楠は、「公共」性・「公共」圏を実現するために、「講習討論」「朋友講学」といった身分階層を超えた討議を政治運営のもっとも重要な営為として重視した。
また、「交易」を重視する立場から、外国との通商貿易をすすめ、産業の振興をも「交易」として捉えて国内における自律的な経済発展の方策を建議し、そのために幕府・藩を越えた統一国家の必要性を説いた。
体系的に小楠の国家論が提示された文書として、万延元年(1860年)に越前国福井藩の藩政改革のために執筆された「国是三論」がある。
そのほか、学問と政治のむすびつきを論じた嘉永5年(1852年)執筆の「学校問答書」、マシュー・ペリーやエフィム・プチャーチンへの対応についての意見書である嘉永6年(1853年)執筆の「夷虜応接大意」、元治元年(1864年)の井上毅との対話の記録「沼山対話」、慶応元年(1865年)の元田永孚との対話の記録「沼山閑話」などがある。
共和制(大統領制)の事を「尭舜の世(禅譲)」と評した事でも知られる。