橋本経子 (HASHIMOTO Tsuneko)

橋本 経子 / 観行院(はしもと つねこ / かんぎょういん、文政9年11月26日 (旧暦)(1826年12月24日) - 慶応元年8月9日 (旧暦)(1865年9月28日))は、幕末期の日本の女官。
第120代仁孝天皇の后妃のひとりであり和宮親子内親王の生母。
通称おすめ。
官職は典侍。

12代将軍・徳川家慶時代の大奥で絶大な権勢を振るった上臈御年寄姉小路、水戸藩老女花野井は、経子の伯母である。

経歴

経子は文政9年(1826年)に羽林家の橋本実久の娘として誕生(兄は橋本実麗)。
幼名は「おすめ」と称する。
天保10年(1839年)、禁裏の後宮に上がり、典侍の位を受ける(官名は新典侍)。
時の帝は仁孝天皇であった。

経子は仁孝天皇の寵愛を受け、皇子・胤宮(夭折)、皇女・和宮親子内親王の1男1女をもうける。
しかし、和宮が誕生する前に仁孝天皇が崩御。
天皇の手がついていた女官は崩御と同時に落飾、という宮中のしきたりによって経子は薙髪し、観行院と号した。
これによって後宮を離れた経子は、実家の橋本家の屋敷にて和宮を育てた。

ただし、この当時の禁中および公家の生活はどこも苦しかった。
朝廷からは養育料として合力米五十石と銀二十枚を下賜することが決まっていた。
しかし、皇女の体面を維持する生活には十分でなく、和宮幼少時の衣装は大半が仕立て直しであった。

しかし和宮の紐直の儀の翌年にあたる安政元年(1854年)12月、観行院へ贈られる賄い料の年十石の加増を徳川幕府は許可した。
さらに安政3年(1856年)9月には有栖川宮家との結婚支度料を幕府により増進されている。

勧行院は和宮と共に度々移居を経験していた。
安政元年4月6日には皇居炎上により青蓮院に転居(18日橋本邸へ帰邸)。
安政4年(1857年)1月28日には父実久の死に伴って宝鏡寺へ向かった。
その後5月24日に再び橋本邸へ戻った後、安政7年(1860年)2月23日に桂御所へ移居し、和宮の輿入れとともに江戸へ向かう。

嘉永4年7月12日(1851年8月8日)、6歳になった和宮は、異母兄である孝明天皇の勅許により有栖川宮熾仁親王との婚約が成立する。
しかし、その2年後の黒船来航によって国論が攘夷と開国に二分するなか、江戸幕府が目論んだ「公武合体政策」の一貫として、和宮と14代将軍・徳川家茂の婚姻政策が持ち上がる。
この縁談には観行院はもちろんの事、孝明天皇、そして和宮本人も大反対であった。
しかし、幕府や公武合体派の度重なる要求についに和宮が折れ、熾仁親王との婚約は解消された。

徳川家茂との婚約が調うと、文久元年(1861年)10月20日に江戸に向けて出発した。
孝明天皇は和宮に配慮し、江戸城へ生母の観行院、乳母の土御門藤子、女官の庭田嗣子(仁孝天皇の典侍)、鴨脚克子を同行させて精神的な不安を軽減させたほか、典薬寮の医師も数人付随させ(うち一人は降嫁後も江戸に常駐)、万が一関東の地で病を得ても都と同じ治療が受けられるようにした。

江戸に向う和宮の未曾有の大行列は中山道を通り江戸城へ向かった。
文久2年2月11日 (旧暦)(1862年3月12日)に江戸城大奥に到着した観行院と和宮は14代将軍・家茂の義母・天璋院、家茂の実母・実成院、13代将軍・家定の生母・本寿院と対面する。
そこで和宮は「いち早く京風から江戸風の生活に慣れるように」と天璋院、実成院、本寿院らに言われる。
御所風の生活を保障すると言われていた和宮と観行院、女官の土御門藤子、庭田嗣子、能登らは動揺する。
京で幕府が朝廷に約束したことは、全く大奥に伝達されていなかったのである。

観行院らは天璋院の意向を無視し、和宮の御所風の生活を重視して江戸風の生活に慣れようとはしなかった。
そのため大奥女中や天璋院とのいざこざも少なくはなかった。
、天璋院や瀧山が率いる大奥女中との対立が深まった。
観行院は和宮以上に大奥での生活で天璋院を中心とする江戸方の女中と対立した。

一方で、和宮の生母にして先帝の典侍である観行院は、大奥において上臈上座の位を授けられる。

下向後も異郷の地で和宮を支え続けた観行院であった。
しかし、元治元年(1864年)秋ごろより体調を崩す。
江戸に常駐していた典薬寮医師や幕府の奥医師たちが発行した容態書には、「御気血御不順」「御心痛」「御小水不利」「水気」「御手足麻痺」など、脚気と思われる症状が記されている。
年末に一旦持ち直すが、年が明けて慶応元年(1865年)に入ると再び病状が悪化。
夏の暑さに体力を奪われて衰弱した。
7月26日、28日、29日と続けて和宮の見舞いを受けるものの、秋も深まった8月に入るといよいよ重体となり、8日に容態が急変。
翌8月9日、江戸城にて死去。
享年40。

観行院死去の事実は、庭田嗣子をはじめとした数人にしか知らされず、公式に発喪された14日までは和宮にさえ秘密にされた。
何も知らない和宮は、観行院の死後もその回復を祈ってお百度参りを続けており、居たたまれなくなった嗣子がそれを止めたという。

戒名は観行院光誉心月覚影大姉。
遺体は将軍側室と同様の待遇を受け、増上寺の徳川家墓所准別当岳蓮社に寝棺によって埋葬された。
また、和宮を育てた功績により、朝廷から正五位の追贈を受けた。

観行院の墓所は昭和27年(1952年)、芝学園運動場拡張工事の際に発掘された。
遺体は桐ヶ谷斎場にて火葬されて、新しく移設された合葬墓に再埋葬された。

[English Translation]