橘俊綱 (TACHIBANA no Toshitsuna)

橘 俊綱(たちばな の としつな、長元元年(1028年) - 寛治8年7月14日 (旧暦)(1094年8月27日))は、平安時代後期の官人・歌人。
讃岐守橘俊遠の養子。
実父は関白藤原頼通。
正四位上・修理大夫。
伏見修理大夫と号した。

経歴

藤原師実とは両親を同じくする兄弟であるた。
しかし、実父の正妻隆姫女王と異母兄藤原通房への配慮から養子に出された。
丹波国、播磨国、讃岐国、近江国、但馬国などの国司を歴任。
その高貴な血筋に反して官位は正四位上にとどまった。
しかし、その門地と財力により彼の西洞院邸は承暦3年(1079年)藤原賢子(白河天皇中宮)の出産の際の里邸になった。

造園に造詣が深く、日本最古の庭園書である『作庭記』の著者の有力候補とされる。
伏見の別邸は俊綱自ら造園を行い、「風流勝他、水石幽奇也」(『中右記』)と賞賛された。
『今鏡』において、弟の藤原師実が伏見の別邸を突然訪ねるも俊綱が豪奢にもてなした話や、俊綱が白河天皇に対して、院が造営した鳥羽離宮より伏見の別邸の方が優れていると問答をしたとの話が語られている。

歌人としても活躍し、天喜4年(1056年)皇后寛子春秋歌合にも参加、承暦2年(1078年)内裏歌合には指導的役割を果たした。
また自邸でもしばしば歌合・歌会を催した。
特に伏見の別邸は能因・源経信・藤原通俊ら同時代の歌人たちの交流の場にもなっていた。
『後拾遺和歌集』以下勅撰和歌集に合計12首入集している。

説話

『宇治拾遺物語』には、俊綱は昔尾張国の「俊綱」(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての雪辱をした、との説話がある。

『十訓抄』等にも、俊綱に関する説話がある。

[English Translation]